日本最後の内戦「西南戦争」を知る旅
1877年(明治10年)に西郷隆盛率いる薩摩士族が明治政府に対しておこした「西南戦争」。幕末・維新期の争いの中で最大規模、かつ国内最後の内戦であり、明治維新の総仕上げとなった戦です。熊本県全域が戦場となりましたが、中でも最大の激戦地となったのが熊本市北区植木町にある、「田原坂」(たばるざか)という坂道とその周辺地域でした。今も多くの史跡や遺品が残り、激しい戦争の痕跡を現代に伝えています。現地へと足を運び、武士の世に終止符を打ったその戦いの歴史に触れてきました。
- 田原坂公園・熊本市田原坂西南戦争資料館
- 田原坂
- 七本官軍墓地
- 七本柿木台場薩軍墓地
- 二俣瓜生田官軍砲台跡
- 高月官軍墓地
- 半高山・吉次峠古戦場
激戦地「田原坂」にある資料館で、貴重な資料に触れる
田原坂公園・熊本市田原坂西南戦争資料館
まず訪れたのが、田原坂を上りきった頂上一帯にある「田原坂公園」です。かつての激戦地も今は眺望豊かな公園として整備されています。
公園の敷地内にあるのが、「熊本市田原坂西南戦争資料館」です。2015年に現在の位置に作られた資料館で、当時の貴重な資料や遺品などが展示されています。さらに、当時の戦いの激しさを体感できるといいます。
資料館をご案内いただいたのが、館長の小宮計則さんです。元々、田原坂のボランティアガイドとして活躍していたという経歴の持ち主。館内を分かりやすい語り口で案内いただきました。
館内の有料展示エリアに入ると、まずは「アプローチ展示室」の西南戦争に至るまでの歴史が学べる展示ゾーンが広がります。天井までの大きなパネルには、幕末期のペリー来航から明治維新までの国内外の動きが年表で解説され、西南戦争に至るまでの歴史的背景を知ることができます。さらに、幕末期の熊本の偉人に関する資料や古文書の展示も。
さらに進むと、西南戦争時の具体的な経過が地図などと共に記されたコーナーです。
「なぜ田原坂が激戦地となってしまったのか、その理由は加藤清正公が熊本城を築城した時代にまで遡ります。清正公が北の護りの拠点として作ったこの道は、玉名方面から熊本へ大砲を運べる唯一の道でした。蛇行した登り坂を政府軍がなかなか進むことができず、17日間もの戦いの場となってしまったのです」と小宮館長が教えてくれます。
西南戦争全体での死者は、政府軍・薩摩軍合わせて約1万4000人。その内、この17日間での戦死者は約3500人にも上り、1日32万発もの弾丸が降り注いだそうです。
体感展示室では、その戦闘の激しさを五感で体感できます。当時の戦場を再現したジオラマの中で、臨場感溢れる映像や、実際の大砲や鉄砲の発砲音を使った音響、揺れなどを感じられます。約15分間の上映です。
その奥は「検証展示室」。当時、実際に使われた武器や道具の展示などを見ることができます。政府軍と薩摩軍の装備を見比べると、豪華な政府軍に対して質素な薩摩軍、その物量の差を実感せずにはいられません。
さらに、実際に戦場で使われた刀や銃、発掘された銃弾などの展示も。西南戦争は、日本刀で戦った最後の戦とも言われており、玉名の刀匠・同田貫の刀など貴重な展示も見ることができます。さらに、同時代に政府軍・薩摩軍と、様々な種類の銃が使われていることから、様々な国から多くの武器が輸入されていた、混沌とした歴史的背景も感じられます。
館内では戦死者名簿や写真の展示もあり、現在も資料を探しているそうです。「時代の混沌期、身内や知り合い同士が敵味方となって、斬り合い撃ち合う悲劇もあったと聞きます。その歴史の悲惨さをできる限り残し、伝えていきたいですね」と小宮館長。
館内には、当時の政府軍・薩摩軍や博愛社(日本赤十字社の前身)の装いで写真を撮ることができるコーナーも。銃や刀のレプリカと共に撮影できるので、ぜひ思い出を残しましょう。
資料館のお向かいには、当時の激しい銃撃戦を残す「弾痕の家」(復元)も。
また、この田原坂の戦いでは、敵味方関係なく戦傷者を介抱した「博愛社」の活動があります。「弾痕の家」内には、その関連資料も展示されています。
スポット名 | 熊本市田原坂西南戦争資料館 |
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住所 | 熊本市北区植木町豊岡858- 1 |
電話番号 | 096-272-4982 |
入館料 | 一般(高校生以上)300円、小・中学生100円 ※「弾痕の家」は入館無料 |
営業時間 | 9:00〜17:00(入館〜16:30) |
休み | 年末年始 |
駐車場 | 220台(無料) |
URL | 熊本市ホームページ(外部リンク) |
実際の「戦場」だった場所を散策。今はのどかな公園に
資料館を出て、公園を散策してみます。資料館正面の展望台からは、政府軍の砲台があった二俣台地などを一望。正面の台地の上には、砲台跡地の広場も見えます。今いる田原坂公園がある高台とちょうど同じくらいの高さで、この距離感で狙い狙われ、戦っていたのかと思うと、当時の戦乱をリアルに感じられます。
さらに進むと、西南戦争による両軍の戦没者約1万4000人の名前が刻まれた慰霊碑があります。
一つ一つの名前を追うだけでも、この最後の内戦の大きさに身が震える思いです。
さらに奥には「美少年像」も。薩摩軍には10代前半の少年達も多く動員されたといい、少年が馬で戦場を駆けたという逸話から生まれた像です。ちなみに、この後ろに立つ樟には、今も銃弾が食い込んでいるのだそう。
広い園内は緑豊かでのどかな雰囲気です。春には桜やツツジの名所として多くの人が訪れる場所です。かつての激戦を思い浮かべると、こののどかな平和さのありがたみをなお一層、感じられるように思いました。
「越すに越されぬ田原坂」を、実際にこの足で歩いてみる
田原坂(たばるざか)
田原坂公園の近くには、激戦の舞台となった「田原坂」があります。今も生活道路として使われているこの道。車で通り抜けることもできますが、せっかくなので自分の足で歩いてみました。
坂の麓には、「一の坂公園」として整備されている広場があります。ここに車を駐めて、田原坂公園まで坂を歩いてみます。
田原坂は長さ約1.5km、高低差約60mの緩やかな坂で、麓から一の坂・二の坂・三の坂に分かれています。丘陵を蛇行するように作られており、ただ歩くにはそこまできつくはありません。
先ほどの小宮館長が教えてくれた、田原坂の特徴を思い出します。熊本城を築城した清正公により、北の方角にある玉名・南関方面に通じる重要な街道である田原坂を「北の護りの要」として考え、攻めにくいような工夫を随所に設けたというこの道。先の見通しが悪く、この道を越えて熊本を目指していた政府軍にとっては難所であり、薩摩軍にとっては守りやすい土地形状でした。当時は雨が降ったこともあり、「雨は降る降る じんば(人馬/陣羽)はぬれる こすにこされぬ 田原坂」の民謡が残されています。
実際に歩くと、確かに先の方が全く見えません。
二の坂・三の坂と登るにつれて、片側の見晴らしが良くなります。しかし、逆に潜伏や襲撃されやすい立地だったようです。資料館で見聞きした情報が、現地に立つとさらに実感をもって知ることができます。
途中には戦没者慰霊碑もあり、坂を上りきると「田原坂公園」へと到着します。自分の足で歩くことで、新たに感じられることも多いと実感できた、往復約3kmの散策でした。
スポット名 | 一の坂公園 |
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住所 | 熊本市北区植木町豊岡 |
駐車場 | あり |
時代の狭間で戦い抜いた先人達の命に、思いを馳せる
七本官軍墓地(ななもとかんぐんぼち)
さらに車を走らせ向かったのは、「七本官軍墓地」です。田原坂公園からは車で約5分、広い駐車場が整備されており、ここから墓地まで数分歩きます。見えてきたのは、森の中に静かに佇む墓地です。
この墓地では、西南戦争で戦死した政府軍の軍人276名、軍夫10名、警察官14名が埋葬されています。それぞれの墓碑には階級、氏名、所属隊名、戦死した日、場所及び出身地などが刻まれています。
敷地内には、兄は政府軍、弟は薩摩軍に分かれて戦い、共に戦死した兄弟の遺族が、供養のために背負ってきて植えたという「背負いの松」も。
整然と並ぶ墓碑、その1つ1つに人生があったのだと考えると、戦いの無慈悲さや平和のかけがえのなさを実感せずにはいられません。
スポット名 | 七本官軍墓地 |
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住所 | 熊本市北区植木町轟多尾 |
問い合わせ | 熊本市文化財課 096-328-2740(管理:熊本市北区土木センター) |
駐車場 | あり |
七本柿木台場薩軍墓地(ななもとかきのきさつぐんぼち)
また、「七本官軍墓地」から車で約3分の場所には「七本柿木台場薩軍墓地」もあります。こちらも広い駐車場が整備されています。
ここは、薩摩軍の大きな台場があった場所。見晴らしの良い景色の中で、七本周辺で戦死した薩摩軍兵士311名が埋葬されています。この七本の地区が政府軍に占領され陥落したことで、田原坂の戦いの幕が下りたのだそうです。
スポット名 | 七本柿木台場薩軍墓地 |
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住所 | 熊本市北区植木町轟 |
問い合わせ | 熊本市文化財課 096-328-2740(管理:熊本市北区土木センター) |
駐車場 | あり |
「玉東町」で巡る、西南戦争の関連史跡
二俣瓜生田官軍砲台跡(ふたまたうりゅうだかんぐんほうだいあと)
田原坂がある熊本市北区植木町のお隣、玉名郡玉東町(ぎょくとうまち)も、田原坂の戦いの戦場となった地域です。この玉東町側の史跡も巡ってみます。
まず、訪問したのが、国指定史跡「二俣瓜生田官軍砲台跡」。
先ほど、田原坂公園の展望台から見えていた、台地の上のあの広場です。
広い駐車場が整備されており、車でアクセスしやすい立地です。入口から敷地へと足を進めると…。
広い芝生の広場が、きれいに整えられています。西南戦争時、ここには官軍の野戦砲台が置かれ、田原坂に陣地を構えていた薩摩軍へと大砲を発射していたそうです。
先ほど訪問した田原坂公園や資料館、弾痕の家、慰霊碑も目の前に望むことができます。ほかにもこの二俣台地には2カ所の野戦砲台に8門の大砲が備えられていたそうです。
そのような激しい戦闘も、今は昔。現在では、ピクニックなども楽しめる見晴らしの良い丘として開放されています。歴史に思いを馳せながらも、のどかな景色や静かな空間をゆったり楽しみたいスポットです。
スポット名 | 二俣瓜生田官軍砲台跡 |
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住所 | 玉名郡玉東町二俣1798番地他 |
問い合わせ | 玉東町教育委員会 0968-85-3609 |
駐車場 | あり |
高月官軍墓地(たかつきかんぐんぼち)
台地を下り、国道208号線へ。玉東町中心部のJR木葉駅近くにあるのが、国指定史跡「高月官軍墓地」(たかつきかんぐんぼち)です。
田原坂からも近いこちらの墓地には、田原坂、吉次峠、横平山の各激戦で戦死した官軍兵士の墓980基があります。田原坂周辺にある官軍墓地としては最大の規模の墓地です。
墓碑には一基ごとに、戦死者の名前や階級、出身地、戦死した月日日時と場所が記されています。それがこれだけの規模感で整然と並んでいるのを見ると、田原坂だけで、西南戦争全体のおよそ四分の一の戦死者が出たというその戦闘の苛烈さを深く感じます。
墓地は公園としてキレイに整備されています。国道すぐ近くにありながらも、静謐とした雰囲気に包まれた場所です。
スポット名 | 高月官軍墓地 |
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住所 | 玉名郡玉東町木葉680 |
問い合わせ | 玉東町教育委員会 0968-85-3609 |
駐車場 | あり(玉東町役場の駐車場の利用を) |
田原坂に続く激戦地の戦場跡へ
半高山・吉次峠古戦場(はんこうやま・きちじとうげ)
最後に、田原坂から少し離れて、金峰山方面へ車で約10分、半高山・吉次峠古戦場跡へとやって来ました。ここも西南戦争の激戦地の一つです。この町道がかつては吉次往還という重要な交易路であり、西南戦争時は半高山には薩摩軍が布陣していました。
現在、山の麓は多目的広場として整備され、広い駐車場もあります。半高山山頂からは雲仙方面、山鹿菊池方面、熊本市方面とパノラマの眺望を楽しめるそうです。(令和6年度末までは頂上は整備工事のため立ち入り不可)
駐車場横の広場も有明海方面の眺望が美しいスポットとして人気です。トイレも整備されているので、ドライブの休憩スポットとして立ち寄るのも良いですね。
また、道向かいには吉次峠戦場地跡へと登る石段も。地の利を生かし薩摩軍が布陣していたこの付近では、田原坂の戦いよりも長期間、戦闘が続き、官軍によって「地獄峠」とも称されたといいます。石碑や看板によってその歴史を知ると、こののどかな眺望もまた、違った風に見えてくる気持ちです。
スポット名 | 半高山・吉次峠古戦場(半高山多目的広場) |
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住所 | 玉名郡玉東町原倉字荒強当2334-16他 |
問い合わせ | 玉東町教育委員会 0968-85-3609 |
駐車場 | あり |
玉東町では、これら西南戦争の史跡をはじめ、豊かな自然を楽しめる4つのフットパスコースが設定されています。自分の足でゆっくり散策しながら、歴史に触れてみるのも楽しいですよ!
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中川千代美
長崎生まれ、熊本在住。地方出版社に勤めたのち、「チヨミ編集事務所」として独立。地域の子育て情報誌や生活情報紙をはじめ、幅広いジャンルの編集・ライティング・企画を手がける。食欲・物欲・お出かけ欲・温泉欲・ビール欲が赴くままに熊本・九州を駆け回る日々。趣味は二胡。
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