水運で栄えた商人町の歴史をたどる川尻散策

熊本市中心部から南へ約8kmの位置にある川尻町。鎌倉時代から港町として栄え、舟運の発達により人やモノの集積地となった川尻は、商人のまちとして発展しました。歴史的建造物や文化が継承されている川尻を、観光ガイドさんに案内してもらいながら、徒歩で約1時間ほど散策してみました。
・くまもと工芸会館
・瑞鷹酒造株式会社 東肥大正蔵
・川尻公会堂
・熊本藩川尻米蔵
江戸時代には熊本藩の米蔵が置かれ、年貢米の集積・積出港として、藩の中でもひときわ重要な役割を担っていた川尻。年貢米を納めた舟の多くは、その足でさまざまな物品を買い入れたため、包丁などの鋳物や桶をはじめとする木製品、反物などの商工業が発展し、宿場町としても栄えました。

そんな川尻の歴史を案内してくださったのは、「かわしり史跡案内人」の牛嶋一寶(うしじまかずたか)さんです。生まれ育った川尻の勉強し始めたところ、その歴史の面白さに魅了されたと言います。「川尻の歴史的財産を1人でも多くの方に伝えていきたい」との思いからガイドを続けています。
郷土に伝わる文化・工芸に触れ、より身近に
くまもと工芸会館

案内人の牛嶋さんと待ち合わせたのは「くまもと工芸会館」です。鎌倉時代から港町として栄え、職人のまちとしても知られる川尻。ここでは、受け継がれてきた伝統工芸の実演や体験講座が毎日開講されています。

今回は、川尻の繁栄を支えた水運文化を中心に案内していただきました。まずは「くまもと工芸会館」内に飾られている泰寶丸(たいほうまる)の模型コーナーへ。細川家の家紋が施された絢爛豪華なこの船は、藩のお殿さま専用。主に参勤交代の際に利用されていたそうです。

参勤交代の際は、当時熊本藩の領地だった大分の鶴崎まで陸路で向かい、港に停泊させていた泰寶丸にお殿さまは乗り込んだそうです。総勢約70艘の船で大勢の家来たちを引き連れ大阪港へ。再び陸路で東海道を北上し、江戸を目指します。当時の参勤交代は、海路・陸路を合わせて往復約70日間の長旅だったそうです。
スポット名 | くまもと工芸会館 |
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住所 | 熊本市南区川尻1丁目3−58 |
関連リンク | くまもと工芸会館ホームページ(外部リンク) |
地域への想いは人一倍! 1867年創業の老舗酒造
瑞鷹酒造株式会社 東肥大正蔵

続いて訪れたのは「瑞鷹酒造株式会社 東肥大正蔵」です。1867年創業の老舗酒造で、日本酒、焼酎、赤酒の製造をしています。赤酒を唯一の地酒として製造していた当時の熊本で、いち早く清酒の製造に取り組んだ酒蔵です。売店ではお酒の無料試飲も可能。川尻メイドのとっておきの地酒は、お土産にも喜ばれますよ。

展示スペース兼売店には、西南戦争の頃の川尻の様子を記した錦絵、お酒にまつわる道具など、歴史を物語るさまざまな展示がされています。「この絵は、西郷隆盛が川尻に本陣を構え、指揮をとる場面です。これは実際の光景ではなく、当時の絵師が想像して描いたものと思われます」と牛嶋さん。

こちらは昭和初期まで使われていた電話ボックス。実際に触れることもできます(見学無料)。当時は大阪〜東京間で5分間の通話料金が1円60銭。住み込みの仕事で月給は2円ほどだった時代では、非常に高価なものでした。今、電話ボックスといえば屋外に設置されていますが、当時の電話は音声が非常に聞き取りづらかったため、室内にボックス形式で設置されていたそうです。
スポット名 | 瑞鷹酒造株式会社 東肥大正蔵 |
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住所 | 熊本市南区川尻1−3−72 |
URL | 瑞鷹酒造株式会社ホームページ(外部リンク) |
高札場跡


こちらは酒造から徒歩1分の距離にある川尻高札場の跡。川尻の町民に幕府や藩の定めたことを町民たちに告知していたこの場所には、「キリシタンを見つけたら知らせること」「親孝行をしなさい」「難破船があったら救助しなさい」など11枚の木札が掲示されていたとか。
「当時、熊本藩には5つの主要な町(城下町、川尻町、八代町、高橋町、高瀬町)がありました。いずれの町も港を有して栄えていました。決まりごとの中でも最も重視されていたのは、キリシタンを見つけることだったようです」。

川尻高札場の跡から徒歩3分ほどの距離にあるのは川尻出身、昭和初期に活躍した史上最強の柔道家・木村政彦先生のゆかりの道場跡(現在は、中を見ることはできません)。川尻商店街のまちおこしの一環として、2024年9月には道場跡の向かいにある町屋を改装した木村政彦先生の記念館がオープン予定だとか。こちらも楽しみですね!

柔道場跡から徒歩2分の場所にある川尻幼稚園。戦争の最中、当時の園児たちが防空訓練をしていた石山トンネルが現存しています。
川尻の文化を育む 地域の拠り所
川尻公会堂

続いて訪れたのは、昭和5年に瑞鷹酒造株式会社より寄贈された「川尻公会堂」です。ここは川尻の方々の拠り所として集会、結婚式、成人式と幅広く利用されています。老朽化や熊本地震により、一度は取り壊しの危機にさらされながらも「愛着のある建物を残したい」という地元の声に熊本市が応える形で2019年4月、建設当時の姿のままに復活しました。

建物は、木造平屋の寄棟造(よせむねづくり)。80畳の大広間と2部屋の和室をぐるりと囲む回廊には、格子壁を設置。耐震性と景観を両立させた空間は、日本建築防災協会の表彰を受けています。

木造建築の精巧な細工が施されており、それらを眺めるだけでも楽しめます。「瓦葺の屋根にはあえて雨樋は設けず、雨垂れが窓に描く様子を眺め、風情を楽しもうというコンセプトです。玉砂利に落ちる雨雫の音もいいものですよ」と牛嶋さんは微笑みます。
スポット名 | 川尻公会堂 |
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住所 | 熊本市南区川尻4−8−25 |
下町恵比須


こちらは川尻公会堂の目の前に位置する「下町恵比寿」です。小さな祠の屋根には、さりげなくキリシタンの象徴であるクロスの造形が施されています。天草の船が行き来していたこの港で、かつての隠れキリシタンたちが祈りを捧げていたようです。
国史跡に指定された地域の宝
船着場


続いて訪れたのは、「下町恵比寿」から徒歩2分の距離にある船着場。牛嶋さんをはじめ地域の子どもたちの遊び場だったそうです。2010年に国史跡に指定されています。かつては年貢米を積み下ろす際の発着場所として利用されており、加藤清正公の時代に造られたと言われています。
船着場には、明治中期に造られた煉瓦造りの公衆トイレも現存しています。当時の姿をとどめているのは、国内でもここだけだとか!

御船手渡し場跡

川沿いをさらに5分ほど歩くと、昭和36年まで使われていた御船手渡し場跡に到着。同じく2010年に国史跡に指定されていました。主に対岸の杉島に住む人々が川尻へと渡る際に利用されていたそうです。こちらも船着場と同じく加藤清正公の時代に構築されたと推定されています。
熊本藩川尻米蔵

続いて訪れたのは「熊本藩川尻米蔵跡」です。瓦には細川家の九曜紋(くようもん)が使用されていることからも、格式の高さが伺えます。2010年に国史跡に指定されて以来、修復工事の最中に熊本地震やコロナに見舞われながらも、地域の思いを受けて2023年10月、資料館として待望のオープンとなりました。



幕末に川尻に建築された熊本藩直営の米蔵は、全9棟のうち2棟が現存しています。全国で現存する藩直営の米蔵は、岩手と鳥取、熊本(川尻)の3拠点のみ。希少な歴史の証人となっています。巨大な吹き抜けの空間に、無数の柱が伸びる姿は圧巻です。

60kg相当の重さの米俵を担ぐ牛嶋さん。筆者もチャレンジしましたが、びくともしませんでした‥。当時の力持ちはこの米俵を2俵担いでいたというから驚きです。

スポット名 | 熊本藩川尻米蔵 |
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住所 | 熊本市南区川尻3−3−30 |
関連リンク | 熊本藩川尻米蔵/熊本市サイト(外部リンク) |
薩軍本営跡

こちらは西南戦争の際に西郷隆盛が泊まったと言われる建物。「もともと西郷さんは、戦争をするつもりはなかったそうです。だから、その証として2匹の犬を連れていたとのことですが、ここに着いた時にはすでに戦争の火蓋が切られていました。西郷さんはその報せを聞いて非常に悔やんだと言われています」と熱く語る牛嶋さん。西郷さんのファンならずとも、歴史の重要な1ページが刻まれている川尻のまちを訪れてみたくなるのではないでしょうか。

牛嶋さんは、地域をともに盛り上げる地元の方々と月に1度勉強会を開いているそうです。歴史的建造物や精霊流しをはじめとする伝統行事など、古伝承(こでんしょう)が川尻のまちに今も継承されているのは、牛嶋さんや地域の人々の理解と行動があってこそ。かつての人々の暮らしぶりが窺える痕跡を辿りながら、脈々と受け継がれる川尻のまちの歴史に想いを馳せてみてくださいね。
ガイド名 | かわしり史跡案内人 |
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電話番号 | 096−358−5711(くまもと工芸会館) |
料金 | 無料 |
備考 | 1名から予約可 |
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中城明日香
大分県生まれ、熊本市在住の編集者・ライター。
地域の出版社・編集プロダクションを経て、独立。
自然、暮らし、農業、教育、観光、ファッション、アートなど、“毎瞬”を楽しむ姿勢で幅広いジャンルの記事を手がける。仕事もプライベートも書くことが生業。