こころが
熱くなる
対話の旅へ。

KUMAMOTO Blue DIALOGUE

人吉 HITOYOSHI,
KUMAMOTO

シンガーソングライター タロー
キジウマ
SINGER-SONGWRITER,
TARO KIJIUMA

まちの未来をひらく、
熱い人に逢った。

A Story with
Hitoyoshi,Kumamoto.

球磨郡あさぎり町出身のシンガーソングライター・
タローキジウマは、あきらめの悪い男だ。
大学卒業後、ビッグミュージシャンを夢見て上京するも挫折。
地元に戻り、葛藤と挑戦を積み重ねながら歌い続ける日々
で直面したのが、令和2年7月豪雨だった。
あれから3年半。いまは地元を離れてしまったものの、
「また逢いたい」。そんなまっさらな気持ちでふるさとを歩いた。

令和2年(2020)7月3日から4日にかけて記録的な大雨が降り、球磨川流域に多数の被害をもたらした「令和2年7月豪雨」。当時はコロナ禍の影響もあり、まちや市民の生活に大きな爪痕を残しました。 時間はかかったものの、市街地の店や宿泊施設は続々と再開。まちのランドマークとなる観光施設もにぎわいを見せるなど、変化を重ねながら、確かな歩みをすすめています。 川とともに生きることを選び、新しいまちづくりにまい進する人々との、徐々に熱を帯びていく対話の旅。そこで感じた想いがことばとなり、メロディーがうまれました。

TRAVELER

TARO KIJIUMA タロー
キジウマ

球磨郡あさぎり町生まれ。2019年に「熊本県シンガーソングライターオーディション」でグランプリ獲得。シンガーソングライターの活動のほか、「変寺」という2ピースバンドにも所属。県内外のライブやイベントを精力的に行う。災害後にリリースしたドネーションアルバム「街」は、その売上の全額を人吉球磨のミュージックシーン、カルチャーを支えてきた2店に寄付した。プライベートでは1女の父。

KUMAMOTO BLUE DIALOGUE
PLACE

人吉
HITOYOSHI

熊本県南部に位置し、まちの中心を清流・球磨川が流れるのどかなエリア。
鎌倉時代から明治時代まで続いた相良氏の城下町で、
いまも独自の文化が息づく“豊かな隠れ里”といわれます。
歴史的建造物、球磨川流域で生まれる豊かな食、温泉。
大人の心と体を癒やすコンテンツが目白押しです。

01
日常は奇跡の連続でできている

PLACE
人吉温泉しらさぎ荘

STORY
TELLERvol.01

高山 多摩

髙山 多磨
KOYAMA
TAMA

「人吉温泉しらさぎ荘」女将。生まれも育ちも東京だが、2012年に4代目・高山洋氏と結婚し、人吉へ。豪雨の影響で木造一部2階の旅館は2階まで浸水し、建物は全壊。それでも全国からの復興を望む声に後押しされ、夫婦2人3脚で復旧に取り組み、2023年4月に本格再開を果たした。

01
当たり前の毎日は
“奇跡の連続”なのかも。
災害のあと、そんな風に
考えることが増えました。

髙山人吉温泉には「さくら会」という女将さんたちの会があるんですが、私も毎週月曜の朝、人吉に来られたお客さんを歓迎するために駅に行くのがルーティンでした。 豪雨のあと、そんな“当たり前”がピタッとなくなって。本当に「非日常が日常になってしまったんだなあ」と実感しました。水害から3年近くかかりましたけど、昨年やっと旅館を再開できて。お客さまをお迎えできるようになって。もしかして、こういう毎日のほうが奇跡なのかもしれないって思ったんですね。宿を閉めていた期間は、主人と「しらさぎ荘の未来」についてたくさん話をしました。 うちはもともとコイやウナギの養魚場として創業した歴史ある旅館です。今までは若女将として、この宿を「守る」「継ぐ」ということにとらわれていて、ちょっと立ち止まることもできなかったから。どうせゼロからのスタート。だったら私たちが面白いと思うほうに進んでいいんじゃない? と考えるようになったんですね。

宿を閉めていた期間は、主人と「しらさぎ荘の未来」についてたくさん話をしました。 うちはもともとコイやウナギの養魚場として創業した歴史ある旅館です。今までは若女将として、この宿を「守る」「継ぐ」ということにとらわれていて、ちょっと立ち止まることもできなかったから。どうせゼロからのスタート。だったら私たちが面白いと思うほうに進んでいいんじゃない? と考えるようになったんですね。

02復興を後押ししたのは、
ひとつひとつの〝声〟だった。

髙山働く場所だけじゃなくて、住む場所も失いました。だから実は、旅館の復旧を迷っていた時期もあったんですね。もう「人吉で商売はできないかもしれない」「お客さんなんて来てくれないだろう」…いま思えば、できない理由を探していた気がします。そんなとき、同じく被災した温泉宿の若女将から、「何言ってるの? もう一度一緒にがんばろうよ!」と勇気づけられた。ハッとしましたね。もちろんお客さまからの声もたくさん。そんなひとつひとつの“声”が、再開を後押ししてくれた気がします。

いまね、みなさん本当にお忙しいじゃないですか。だからチェックインのとき、疲れた顔されている方が多いんです(笑)それでもおいしい料理をめしあがって、温泉に浸かって、何もしない時間を楽しんで。うちでのんびり過ごしていただくと、朝食のときにパッと元気になったお顔を見れるんです。そうやって笑顔で日常に戻っていただけるのをみると、やっぱり嬉しいなあって思いますね。

髙山働く場所だけじゃなくて、住む場所も失いました。だから実は、旅館の復旧を迷っていた時期もあったんですね。もう「人吉で商売はできないかもしれない」「お客さんなんて来てくれないだろう」…いま思えば、できない理由を探していた気がします。そんなとき、同じく被災した温泉宿の若女将から、「何言ってるの? もう一度一緒にがんばろうよ!」と勇気づけられた。ハッとしましたね。もちろんお客さまからの声もたくさん。そんなひとつひとつの“声”が、再開を後押ししてくれた気がします。

いまね、みなさん本当にお忙しいじゃないですか。だからチェックインのとき、疲れた顔されている方が多いんです(笑)それでもおいしい料理をめしあがって、温泉に浸かって、何もしない時間を楽しんで。うちでのんびり過ごしていただくと、朝食のときにパッと元気になったお顔を見れるんです。そうやって笑顔で日常に戻っていただけるのをみると、やっぱり嬉しいなあって思いますね。

KIOKU 写真 02KIOKU 写真 03

SPOT INFORMATION

人吉温泉しらさぎ荘

水害対策として、大浴場や家族湯がある1階は鉄筋コンクリート。5室ある客室やフロント(2階)には人吉・球磨の木材を使用。「川と生きる」という想いから、大浴場や渡り廊下の床には球磨川の石を使用した。

http://www.shirasagisou.jp

02
船頭は、
未来に向かって漕ぐ

PLACE
HASSENBA

STORY
TELLERvol.02

藤山 和彦

藤山 和彦
FUJIYAMA
KAZUHIKO

球磨川くだり株式会社 運行管理課長。生まれも育ちも人吉市。20歳で「球磨川くだり」に入社し、船を漕ぎ続けて25年目の大ベテラン。

翡翠色の川にこだまする観光客の声を聞いた。
「HASSENBA」とは、船の発船場のこと。
かつての建物の躯体を生かしてつくられた
ここはいま、人吉の新たなランドマークとなっている。
時代は変わる。景色も変わる。だからこそ、
変わり続けるまちで伝えたい風景がある。
船頭は今日も、力強く櫓(ろ)を漕ぐ。

01追い風もあれば
向かい風もある。
雨の日もあれば、
風の日もある。

藤山(トンビの声)―ああ、今日の天気は最高ですね。川下りって、船の先頭で舵を握る船頭と後ろで櫓(ろ)を漕ぐ艦張(ともはり)の2人で船をすすめていくんです。この艦張(ともはり)を10年くらいやって、やっと船頭になれるんですね。私も新人の頃は手が豆だらけで、慣れるまで苦労しました。早朝だったら、ここからヤマセミも見えますよ。こういうのは船からじゃないと見えない景色ですね。まだ遊覧コースのみですが、今年の夏までには、従来の球磨川下りコースが復活できる予定。やっと長いコースを漕げると思うと嬉しいです。水害後は川の変化が大きくて、掘削(くっさく)も3度行いました。建物とかの復旧はね、1〜2年ほどで完成するものも多いけど。うちみたいに自然を相手にした生業だと、本当に長い時間がかかるものだなと思いますね。

タローキジウマ
藤山 和彦

02長い歴史の一部に過ぎないけど、
「球磨川くだり」のある
風景を残したい。

藤山水害から1年後に、カフェやセレクトショップなどの機能をもった「HASSENBA」として新しく生まれ変わることができました。学生さんから年配の方まで多くの方が来てくれて、毎日にぎやかです。でも災害直後は壊滅的な被害で、船も流されて…もう船頭の仕事はできないんじゃないか。 生まれ育った人吉はどうなってしまうんだろうと不安でたまりませんでした。20代の時から先輩の船頭さんに「球磨川は暴れ川だから」とよく聞いてたんですよ。まさか、本当の意味でそれを実感するとは。でもね、ずっと球磨川と歩んできたので、この川を憎むとか嫌うとか、ましてや離れるって選択肢は自分になかったんです。

明治に創業した球磨川くだりは、120年近い歴史がある人吉観光のシンボルです。そのなかで僕なんて、長い長い歴史のひとピースでしかないんだけど。やっぱり自分の代で終わらせたくないなと。自分がもっと年をとった時に、若い船頭の子がこの船を漕いでいる風景を見たかった。ただそれだけですね。

タローキジウマ,藤山 和彦

明治に創業した球磨川くだりは、120年近い歴史がある人吉観光のシンボルです。そのなかで僕なんて、長い長い歴史のひとピースでしかないんだけど。やっぱり自分の代で終わらせたくないなと。自分がもっと年をとった時に、若い船頭の子がこの船を漕いでいる風景を見たかった。ただそれだけですね。

HASSENBA 写真 02
HASSENBA 写真 03
HASSENBA 写真 04
HASSENBA 写真 05

SPOT INFORMATION

HASSENBA

人吉球磨の観光のシンボル「球磨川くだり」の発船場であり、カフェ、ショップ、アクティビティの拠点を兼ね備えた複合施設。
人吉球磨を「発信」「発見」「発展」する場になるべく再建された。

https://hassenba.jp/
HASSENBA 写真 06

03
再起を遂げた
新・ドライブイン

PLACE
ドライブインAJISATO

STORY
TELLERvol.03

瀬河 克俊

瀬河 克俊
SEGAWA
KATSUTOSHI

球磨村渡にあった「ドライブイン味里」を譲り受け経営をしていたが、豪雨により建物の地盤ごと流失。現在はアメリカから輸入したトレーラーハウスで再スタートをきった。

手書き文字

タローキジウマ水害が起こったときはあさぎり町の実家に住んでいて。幸いにも被害は全然なかったんだけど、テレビの報道とかで球磨川の様子が映るたびに、これやばいなって。そして真っ先に、「瀬河さん大丈夫か!?」と思って。

瀬河 克俊国道219号沿いにあったうちの店、建物の地盤ごと流失したからね。前の経営者の方が高齢になってドライブインを譲り受けて。業態を大きく変えて、「よし、いい感じで軌道に乗ってきたぞ」って矢先の災害だった。

タローキジウマ・・・言葉にできないですよね。

瀬河 克俊そうね。でもやることないから、自宅のものをかきあつめて、ひたすら地域の方に物資を配ってまわるっていう(笑)。

タローキジウマいや、俺。瀬河さん、自分もめちゃくちゃ被災しているのにこの人すげえなってほんと思ってました。

ドライブイン味里 画像

瀬河 克俊でも、命はあったから。とりあえず店の再開は後回しにして、そういうボランティア活動ばかりやってた(笑)水害の1週間後にはこの更地だった土地を紹介していただいて、まずテントを建てたんだよね。そこからコンテナ、トレーラーハウス、と少しずつ新しい店づくりをすすめた感じ。みんなね、あんな被害にあったのに明るいんだよね。「何とかなるよね」って笑ってて。前を向くスピードが速いというかね。

タローキジウマ高校卒業後に地元を離れて。正直、ふるさとに対して何か特別な思いがあるかというと、ちょっと気恥ずかしい気持ちのほうが勝つというか。だけど人吉は、18歳まで育った大切な場所には変わりなくて。あの時はもうとにかく何でもいいから、自分にできることをやらなきゃって思ったんです。これまでの曲をかき集めて、デモ音源とかも多かったけど何か形にしたくて。ドネーションアルバムをリリースしたんですよね。

瀬河 克俊「街」のリリースは災害の翌日だったよね。7月5日。その売上をうちと「ビビアン&ピンクフラミンゴ」の2店に全額寄付してくれて。「どっちも人吉球磨の音楽とカルチャーを盛り上げてきた店だから」って持ってきてくれたとき、本当にうれしかった。何より、俺あのアルバム好きなんだよ。

タローキジウマAJISATOは場所も業態も変わったけど、いつもお客さん多いし、本当に明るくていい雰囲気だし。相変わらず瀬河さん面白いことやってるなあって思ってます。

瀬河 克俊うちは色んな人来るし、ここでお客さんと笑いあうのが自分らの生きがい。だから売上重視っていうより、「自分たちが楽しい」って思うことを、これからも発信していきたいってのが願いかな。

ドライブインAJISATO写真 02
ドライブインAJISATO 写真 03
ドライブインAJISATO写真 04
ドライブインAJISATO 写真 05
ドライブインAJISATO 写真 06
ドライブインAJISATO 写真 07

SPOT INFORMATION

ドライブインAJISATO

西人吉エリアの新名所にもなっているアメリカから輸入した1950年代のトレーラーハウス。オープンな雰囲気の店内やテラスで、カレーやハンバーガー、パフェなどのメニューが楽しめる。

@drivein_ajisato
ドライブインAJISATO 写真 08

04
語り部がいま
伝えたいこと

PLACE
青井阿蘇神社

STORY
TELLERvol.04

立石 芳利

立石 芳利
TATEISHI
YOSHITOSHI

国宝・青井阿蘇神社の語り部。長年の知見を生かし、水害直後から神社復興活動の先頭に立つ。「人吉球磨伝統文化塾」の代表も務める。

タローキジウマ,立石 芳利

01
いまの人吉をゆっくり歩いて、
その魅力に触れてみてほしい。

立石球磨川の水位が上昇して支流が氾濫(はんらん)し、この「あおいさん」も、国宝の社殿の床上浸水、みそぎ橋欄干の流失など本当に甚大な被害を受けた。人吉球磨の歴史のなかでもおそらく最大規模の水害だったと思う。「これはやばいぞ」と思って早朝、神社にすぐ向かった。そこからしばらく家に帰れんかったね(笑)支援団体を立ち上げ、地域の人たちや学生さんたちと一緒に、泥かきしたり、ゴミの片づけしたり。ひたすら復旧作業に取り組む日々が続きました。この活動を経験したから、今後大規模災害時に民間の災害ボランティアが、被災直後の被災者支援をスムーズに行うことを目的とした、「ひと・くま災害応援隊」が結成されたんです。そして、水害が起きにくい土壌をもっとつくらなきゃいけないと思っていて。まちの子どもたちと一緒に森づくり活動もはじめました。 いま確実にね、まちに灯りがともってきてますから。飲食店も復活して、旅館も再開して。少しずつ、少しずつ。みんな本当に、あきらめず頑張ってきたから。だから来たことがある人も、ない人も。改めて、いまの人吉をゆっくり歩いてみてほしいなと思いますね。

立石 芳利

いま確実にね、まちに灯りがともってきてますから。飲食店も復活して、旅館も再開して。少しずつ、少しずつ。みんな本当に、あきらめず頑張ってきたから。だから来たことがある人も、ない人も。改めて、いまの人吉をゆっくり歩いてみてほしいなと思いますね。

歌詞01 歌詞02 歌詞03
歌詞 歌詞
青井阿蘇神社
青井阿蘇神社

SPOT INFORMATION

青井阿蘇神社

2023年11月。世界的建築家・隈研吾氏が設計し、人吉球磨にゆかりのある職人たちによってつくられた「青井の杜(もり)国宝記念館」が境内に開館。“復興のシンボル”として要チェック。

https://aoisan.jp/
青井阿蘇神社

人吉ひかりの復興プロジェクト

一度ひかりを失ったからこそ、届けていきたいまちの景色。
「ひかりのチカラ」でまちの魅力を磨きあげていくプロジェクトです。

https://www.hitoyoshihikari.com/

タローキジウマが
人吉を旅して出来た1曲です

タローキジウマ