ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.164 「くまもとの風土・郷土を学ぶ~「五足の靴」百年~」

講師/元熊本大学教授・エッセイスト 中村青史さん

 与謝野鉄幹、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里の5人が天草、熊本、阿蘇を旅し、旅行記「五足の靴」を新聞に連載発表して今年は百周年を迎えます。
 この旅を機に、若き詩人たちはそれぞれ日本の近代文学史に大きな足跡を残していくことになります。旅行記連載の4割は熊本県が舞台となっています。「五足の靴」はもっと読まれ、評価されるべき作品です。今年、熊本県下各地では記念のさまざまな催しが予定されています。その前にふるさと寺子屋塾では中村青史さんに5人の詩人と作品、またあまり知られていないことについてご講話いただきました。

「五足の靴」の意義

 新詩社を主宰する与謝野鉄幹(当時35歳)と、まだ学生だった北原白秋(23歳)、木下杢太郎(23歳)、吉井勇(22歳)、平野万里(23歳)の5人が明治40年(1907)8月から9月にかけて、九州を旅しながら綴った紀行文「五足の靴」が東京二六新聞に発表されて今年百周年を迎えます。天草の乱を調べたり、キリシタン遺跡を探訪するなど、天草に3泊4日したことなどから、この旅は異国情緒・南蛮趣味発掘の旅などといわれます。また、白秋の詩集「邪宗門」、杢太郎の連詩「天草組」をはじめ、その後のそれぞれの創作活動、さらには日本の近代文学史に大きな影響を与えました。

漱石を追って

 しかし、よく読んで見ますと、彼らが不思議で、複雑な行動をしていることがわかります。  熊本へは、長洲から汽車に乗って上熊本駅で降りています。熊本駅で降りてもよかったのにわざわざ上熊本駅で降りています。そして、人力車に乗ります。このあと「坂の上から市街を展望すると、まるで森林のやうである。が、巨細に見ると、瓦が見えてくる。」そして、『あゝ、熊本は此数おほい樹の蔭に隠れて居るのだな』という感慨を述べています。これはルートといい、「熊本は森の都」というせりふといい、どこか漱石のことが想い起されます。
 垂玉温泉に一泊したあと、阿蘇に上ることになるのですが、阿蘇では「山腹に立って、大いなる外輪山脈を眺めると、世紀末の今人でも、大きい古典的な情緒と、聯想とを起こさずにはゐられない」といった後、「漱石氏が『二百十日』式の、蓬々たる芽生の間を歩むこと殆んど二時間許りであった」と漱石の名前が現れます。「草枕」と「二百十日」が発表されたのが前年のことです。この五足の靴のメンバーはかなり漱石のことを意識して、旅程を組んだのではないかと思われます。

鉄幹の行動

 熊本では、当時下通入り口角にあった「研屋支店」に泊まったのですが、鉄幹ひとりほかの若い4人と別行動をとります。8月12日(新聞発表は8月26日)には鉄幹は「知れる人を訪ひに往った」とあります。阿蘇登山のあと、栃木温泉に泊まって熊本に帰った8月15日(新聞掲載は8月29日)夜には江津湖・勢舞水楼で歓迎会が開かれるのですが、風邪気味の鉄幹は38度の熱をおしてひとり松村辰喜の迎えに応じます。松村は、「12、3年前は予(鉄幹)と共に韓国」にあったひとで、韓国王妃の事件の武勇伝で座が盛り上がったと鉄幹は書いています。与謝野鉄幹は「明星」の販路拡大と資金集めをしていたのではないかと考えられます。明星に短歌を発表していた熊本の文学青年に対しても寄付をお願いしていました。しかし、あまりうまく集まらず、翌(明治41)年には「明星」はついに倒産してしまいました。


垂玉温泉にある「五足の靴」碑
垂玉温泉にある「五足の靴」碑