ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.162 「薩摩街道を往く~肥薩の歴史~」

講師/芦北町教育委員会生涯学習課文化振興係 主事 深川裕二氏

 日向往還、豊前街道、豊後街道とならび肥後熊本を代表する薩摩街道は、熊本と鹿児島を結ぶ江戸期肥後の南の大動脈でした。そこには景行天皇、弘法大師、豊臣秀吉はじめ、多くの人と文化が交わった歴史の跡を見ることができます。
 今回は、薩摩街道の三太郎峠を中心に、見所のひとつ「佐敷宿」の案内人育成にも携わられている芦北町教育委員会の深川さんのわかりやすい解説とともに、名所旧跡、歴史遺産などをスライドで見せていただきながら薩摩街道の今昔をたどってみました。

薩摩街道の歴史今昔

 薩摩街道は熊本の新町札の辻から鹿児島城下までの道ですが、熊本にとどまらず、九州の北と南を結ぶ、人、物、文化の重要な大動脈でした。
 しかし、日奈久から先、水俣までの道は急峻な赤松太郎、佐敷太郎、津奈木太郎の三太郎越えをしなければならず、難所として知られる一方で、肥後国要害の地としても重要でした。
 明治30年代に津奈木村と佐敷村に隧道がうがたれ、国道37号が建設されるとそれまで荷馬車すら通れない道でしたので、格段に便利になりました。道路開通に向けた地元の取り組みと熱意は強いものがありました。それといいますのも、旧鹿児島本線建設が防衛の意味から海岸線を避けて人吉の方へ行ってしまったという経緯があります。三太郎峠開削には大変な費用がかさみ、それぞれの地元に多額の費用負担が求められたのですが、このままでは取り残されるという危機感が巻き返し運動となり国道建設へ結実しました。

薩摩街道周辺の見どころ

●藤崎家住宅「赤松館」は国登録の有形文化財に指定されています。江上トミさんの生家としても知られているのですが、当主藤崎弥一郎は大金で、徳富蘇峰を援助しています。また、西南の役で倒れた宮崎八郎の許婚が42歳で後妻としてやってきます。そういうこともあって、宮崎滔天も訪ねて来るなど近代史と深く関わっています。
●佐敷隧道は標高145メートル。長さ433・5メートル。明治36(1903)年竣工。国の登録有形文化財指定。徳冨蘆花は佐敷峠越えの感慨を次のように表しています。「隧道の闇に入った馬車が北に隧道を出脱けた途端に、「まあ!」嘆声が一斉に馬車の中からあげられた。…一服の生命の躍る油絵が待ちうけていた」(「死の蔭に」)ここからはこれほど、見事な風景に恵まれています。
●津奈木隧道は、明治34(1901)年竣工。三太郎峠の中では192メートルと、一番高いところで、長さ211・6メートル、幅5メートル、正面から見ますと坑口は、上部にかけてやや広がりのある馬蹄形をしています。国の登録有形文化財に指定されています。

佐敷町歴史散策

 船津橋を渡ると佐敷町です。町の入り口に木戸の門がありました。その内側が佐敷町、外は佐敷村です。佐敷町は郡代の詰所が置かれ、防衛の拠点として栄えた町でした。
 ここで注目してもらいたいのは家並みが通りに面して平行ではないことです。のこぎりの刃のようにギザギザと斜めに家屋が建てられていることからのこぎり家並みといわれています。これは敵に攻められたときに隠れて身を守り、また不意打ちするためとも、荷物の積み下ろしに便利なようにとも考えられていますが、本当のところはわかっていません。さらに短冊形の地割りが特徴で、間口が狭く奥行きが長いつくりになっています。今も薩摩街道の面影があちこちに残っています。また、佐敷地区町並み保存会の町並み修景事業によって、土蔵、白壁のつくり、商家の看板などが歴史の古さをしのばせています。このほか、同保存会はお堂巡りツアーの開催、わりご弁当の販売を行っています。


佐敷宿
佐敷宿