ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.161 「豊臣秀吉の九州平定と熊本城&本丸御殿」

講師/元熊本市教育委員会社会教育指導員 学術団体日本城郭史学会会員 酒井昭治氏

 熊本城築城400年祭のオープニングとともに新しい年がはじまりました。これからも記念のさまざまな催しが予定されていますが、熊本城の復元整備事業の目玉といわれる本丸御殿大広間、なかでも「昭君の間」については「将軍の間」ともいわれていて、清正公の秀吉への思いも伝えられているようです。今回のふるさと寺子屋塾では学術団体日本城郭史学会会員でもある酒井昭治氏に熊本城築城に至る日本史の動きが、九州・隈本でどのように動いたのか、豊臣秀吉に焦点を当てて築城前夜の時代を語っていただきました。

秀吉の九州停戦令

 天正13年(1585)、関白となった秀吉は豊臣の姓を賜りますが、関白とは「天下の万機を関(かか)わり白(もう)す」職という意味で、国政を総覧する臣下第一の職と秀吉は捉えました。それに対し、将軍とは正しくは征夷大将軍と書かれるように、「東夷」を征するために出陣していく武人に与えられた職名ですが、むしろ実際的には名誉職でしかないと位置づけます。そして、権限を有する関白として文書工作にみずから努めることになります。
 そのころ九州では島津義久が勢力を伸ばし、圧迫されていた大友宗麟は秀吉に助けを求めます。それに対し秀吉は島津氏、大友氏の両方に停戦命令を出します。天皇を前面に出して大名に私戦をやめよ、というのです。この提案に劣勢の大友はとびつきますが、島津は激怒します。これまでの常識でいうなら「ランクが低いのに何の権利があってそんなことを言えるのか」というのです。
 島津は天皇の名を借りた文書ですから、返事を返さないわけにいきませんが、秀吉に直接返すのではなく、細川幽斎に返してきます。文書工作は失敗ではないが、ご破算になります。

島津軍の先制攻撃

 この後、島津義久は先手必勝とばかり、天正14年(1586)6月18日に鹿児島を出発します。肥後の城久基には自分の名「久」を一字やっているくらいですから、すんなりと隈本を通過して筑前、豊前、京と進んでいきます。

秀吉の九州攻め、そして平定

 秀吉は翌年3月1日に大坂を立ち、下関・赤間で会議を開きます。一方、島津は退却します。秀吉は40もの藩に声をかけて集めた30万という大軍をもって4月16日隈本、18日八代・芦北へと進み、海路川内へ兵を進めます。この時、秀吉は攻めと同時に守りを十分に固めます。配置としては宇土城に加藤清正、御船城に黒田孝高(官兵衛)、八代城に福島正則などです。
 島津は降参します。長兄・島津義弘は天正15年5月6日、黒染めのきものに身を包み雪窓院で僧になり、5月8日川内の泰平寺へ秀吉に会いに行きます。
 結果として島津は薩摩、大隈と日向の一部を安堵されることになります。名族だからというのが理由だったようです。相良も同じように安堵されました。

国分け、転封

 九州を平定した後、秀吉は筥崎八幡宮に詣でます。そして、国分け・転封の辞令を出します。大友、竜造寺、宗氏らは旧領を安堵されました。一方、肥後隈本には佐々成政、秋月は高鍋に転封を命じられました。このほか下野(栃木)の出身で当時すでに約400年を迎えていた名族の宇都宮鎮房はそれまで3万5千石だったのですが、嫡子が九州平定で活躍したことから四国の伊予今治に12万石を与えられ国替えを命じられます。しかし、先祖伝来の地に対する愛着が強かったのでしょう、朱印状を返してきます。その後、宇都宮氏は謀られ中津城で暗殺されることになり、そればかりか一族すべて殺されてしまうことになります。
 秀吉は「定(さだめ)」というものを出して、大名に与えられた国郡知行というものは、永遠のものではなく、当座のものであり転封や移封はあたりまえである、と周知させるのです。このような考え方は、後に徳川幕府体制をつくる大きな柱のひとつとなります。こうして全国政権樹立への道が完成されていきます。
 物事には功罪両面あるのですが、秀吉の功の部分としては長く戦が起こらずに農工商業が盛んになり、豊かになったことがあげられます。一方で、罪としては、文禄・慶長の役の悲惨な戦いへと突入していったことがあげられます。  これが熊本城築城前夜の日本の歴史です。


九州攻めの図
九州攻めの図