今年は熊本城築城400年祭記念のさまざまな催しが予定されていますが、今回のふるさと寺子屋塾では加藤清正公に焦点を当てて語っていただこうと、湯田栄弘加藤神社宮司にご講話いただきました。湯田宮司は「仰清正公-神として人として」という著書も著しておられます。頓写会とならんで、加藤神社の「清正公まつり」は熊本の夏を代表する祭りとして年々盛大になり、熊本市民ばかりでなく、遠く県外の人々の支持も集めています。また19年秋には加藤神社境内で高千穂の夜神楽が催されるそうです。清正公の遺徳には今日の私たちが学ばなければならないことがたくさんあります。
築城400年、大事なことは
今年、熊本城は築城400年を迎えます。記念事業として飯田丸の復元が完成し、現在本丸御殿大広間の復元が進み、平成19年末には完成の予定です。熊本では「清正公さん」と二重の敬称で親しまれている清正公の偉業がかたちとして表れるのは喜ばしいと思います。同時に、多くの職種、多くの人の協力なしにはこの偉業の達成はありえなかったわけですから、そうさせた人間・清正公の魅力や徳といったものについて、いま一度考えるひとつのきっかけにしてもらえたらと願っています。
人の特性を生かす清正公の人心掌握術
「御大工棟梁善蔵より聞覚控」というのが残されています。そのなかには棟梁の清正公への信頼と尊敬が肥後弁でいきいきと語られています。この殿さんのためならば骨身ば惜しまず働く気になっとばい、と。築城の際も家来には酒を、苦役の民百姓にはイモを特別につけました。お城を造るには大工のほかにも、石工、瓦、紙など多くの職人、また学者の協力も必要です。そういう人々のどれ一つ欠けても立派なお城はできません。清正公は多くの人々に対し、何事も一様にし偏りがありません。もし、自分の立身出世、功名のためだけにことをなそうとするなら人はついては来ません。
清正公の功績
熊本城を造るという事業は民百姓にとっても大変なことでした。しかし、大変な仕事をさせられても決して怨嗟の念が残りません。それは、肥後の民が全地域で恩恵を被っているからです。
例を挙げますと、玉名・高瀬は港として栄えるように計らい、小天にはミカンをつくらせ、高田焼も元をたどれば清正公の采配がありました。紙を漉かせるのも柳川から技術者を招いています。肥後象嵌も京都から連れてきた林又七にその起源があります。肥後の赤牛は清正公が朝鮮から連れてきた牛があったからこそだといわれています。
いま、清正公に学ぶこと
清正公は部下と民百姓を愛し、肥後を豊かにしました。そして、自らは財を残さず、徳を残しました。後の世のためになることをしなければ、今生きている意味がない、というのです。
かつて、清正公は朝鮮の役のことがあって、韓国朝鮮の人からは大変嫌われていました。しかし、この10年くらいでずいぶん評価が変わってきました。熊本城築城にあたって当時の在日韓国(朝鮮)人の方たちが大変にすぐれた技術を提供されているのです。清正公は敵であっても人として厚く遇しています。朝鮮から金銀財宝を奪っていません。
このところ韓国からの観光客の方たちが大変に増えてきました。キムチを作る韓国の人からも喜ばれ、感謝されています。そもそも清正公がトンガラシをかの地に持っていったから現在のキムチがあるというのです。加藤神社は朝鮮人金宦さんを祀っています。この人は朝鮮生れの人ですが、清正公に大変かわいがられた人です。清正公が亡くなると、大変悲しんで、殉死してしまいました。外国人を祀っているお宮は大変に珍しいのですが、これも清正公の遺徳を偲ぶひとつの証しだと思います。
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