ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.159 「ぬくもりの日向往還」

講師/日向往還顕彰会事務局長 通潤酒造株式会社代表取締役社長 山下泰雄氏

日向往還と顕彰会について

 日向往還の豊かな歴史と文化を守り、後世に伝えるために平成15年11月に設立された「日向往還顕彰会」では、熊本市の新町に残されている札の辻の元標を起点にし、可能な限り忠実に昔の「日向往還」のコースを踏破しようと、何回かに分けて歩き続けているところです。もう少しで日向に到達します。残念ながら、日向往還は薩摩街道や豊後街道ほどには有名ではありません。そこで、古い道を優先してあるくのには定石を作るという目的があります。なお、日向往還は藩政時代の肥後4街道のひとつですが、熊本県の調査報告に従い「街道」ではなく、「往還」と呼ぶことにしています。
 実際歩いて見ますと、通れないところもあるにはありますが、山の中の道は残っていますし、ありがたいことに山の尾根歩き道が多いので、ほったらかされていたり、田んぼのあぜ道になって残っています。

熊本市から御船まで

 まず、清爽園を出発、明八橋、長六橋を渡って、御船口へいきます。これは国道3号琴平本町の山本釣具裏にある四つ角です。そこから琴平神社へ、そこから旧浜線。ところで、海に向かうのでもないのになぜ浜線というのか、と不思議がる人もいます。これは現在の山都町の中心部を昔、浜町と呼んでいたことが理由ですが、これも辿ると矢部地区に「浜の館」があったことに由来します。道沿いに一里木、二里木と標(しるし)の榎が植えられていたのですが今は残っていません。現在では道標と地名にその名が残るだけになっています。
 さらに御船川の堤に沿って道は続きます。そこに加藤清正の指揮所跡があります。御船では第一の見所として、門前川眼鏡橋をあげたいです。中国風の丸い石橋です。その先に軍見坂という大変な難所が続き、凱旋門、鼎春園を通ります。鼎春園は宮部鼎蔵と弟春蔵を顕彰した公園です。鼎蔵は布田保之助と仲が良くて、通潤橋の字を頼まれて書き残していることでも良く知られています。茶屋元の道標から右に曲がって行くと、八勢目鑑橋があります。この橋はドラマチックな橋で、通潤橋ができた翌年にできています。それまでその辺りは川が深く、雨が降ると川止めがありました。御船の豪商・林田能寛が私財を投げ打って馬も通れ、激流でも流されることのないこの石橋を短期間で造りました。

山都町から日向へ

 西南の役の戦いでは、御船川流域でも川で血が真っ赤に染まったそうです。傷ついて敗走する薩軍の兵士を土地の人はあまりにかわいそうと看病し、また縁もない人をねんごろに葬っています。それが個人の墓地に今もきちんと残っています。赤子谷の石畳を先に行きますと、鬼の巡り石という大きな岩があります。毎年暮れになりますと、鬼が岩をぐるーっと1回廻すと伝えられています。小石を載せると恋がかなうというので最近では若い人からお年寄りまで、一生懸命乗せています。
 矢部のゴルフ場も通ります。見晴らしが良く、阿蘇山も一望できる景色の良いところです。千人塚は小西勢が敗れた時とも、島津氏の関係とも諸説あるようです。立野橋はアーチは小さいけれど、布田保之助が通潤橋を造る為の実験として造ったもので、重要な意味を持ちます。この時、石工丈八たちが泊めてもらったお礼にと作った石垣が残っています。普通の民家ですが、石垣は立派な武者返しです。金内橋は福良井手を通して作っていることが重要です。延寿桜は細川斉茲公がお手植えになった桜のえにしが伝えられています。昔、矢部にお狩場があって、そのとき泊まられたことに由来します。幕の平の古戦場跡は阿蘇家が分かれて戦ったのですが、島津氏、相良氏や菊地氏まで巻き込んだ戦いの跡地です。芦屋田(地元では「あしゃだ」)の天神さんは子供相撲で有名です。それから矢部の町に入ります。浜町橋は天保4年(1833)にできた古い橋です。日向往還は通っていませんが、見所のひとつです。現在の通潤酒造はかつての備前屋で、細川斉茲公が狩りに来られた時の本陣になっていました。斉茲公御成りの間もありました。庭には大阪から運ばせて作らせたという庭石も残っています。西南の役では、西郷隆盛率いる薩軍がここで軍議を開きました。

山の都という願い

 浜の館跡はその当時、阿蘇氏が肥後の中心となっていたことを物語るものでもあります。もし島津氏に負けさえしなければ、都であり続けたかもしれません。室町末期には、三角に城を持つほど栄えていました。
 清和へ向けて進みますと、熊本県下で一番古い道標が竜の鼻にあります。元禄12年(1699)のものです。男成神社は名が示すとおり、阿蘇家の男子が元服の時に参りました。4月第一土・日曜日には少女神楽が奉納されます。ここの下には珍しい手掘りの「山屋のトンネル」があります。「虎御前」は曾我兄弟の十郎の愛人ですが、十郎を供養してこの地を訪れたことから地名となったようです。先に行きますと、千石庄屋の墓があります。ここには年貢の減免を願い出て一家皆殺しにあったという悲しい話が残されています。ところで、清和文学館前には山頭火の「分け入っても分け入っても青い山」の句碑が建てられていますが、山頭火が日向往還の高千穂につく前のどこかでこの句を読んだことは間違いありません。また最近では若山牧水とこの道の関わりも調べられています。
 さて、馬見原は宿場町として栄え、肥後藩ばかりでなく、岡藩の藩札も通用する交易の地で、県下でも有数の裕福な町でした。江戸期の馬見原の大火がなければもっと歴史的な建造物も残っていたはずです。火を鎮めるための火伏地蔵が祀られて、8月の第3土・日曜日に火伏せ地蔵まつりが行われます。さらに進みますと「境の松跡」がありその名の通り、ここが日向との国境です。ここで肥後・熊本の日向往還は終わりを告げます。
 矢部、清和、蘇陽の3町がひとつになって山都町となったのですが、山の中の都という歴史に連なり、またこれからそう呼ぶにふさわしい町になっていけばという願いが込められています。