熊本県八代市の最南端に位置する日奈久地域は、古くから温泉地として有名です。町の中央に薩摩街道が通り、数々の温泉施設や旅館が立ち並びます。複雑で迷路のような道ですが、歴史は古く、600年もの間その形と歴史と風情を今もなお残し続け、ゆっくり歩きたくなるそんな町並みです。温泉街として繁栄し、今も愛されている日奈久の魅力と歴史をご紹介します。
温泉発見は600年前
応永16年(1409)浜田六郎という少年が、戦で傷ついた父浜田右近の体の刀傷の平癒を願い厳島明神に祈り続けていました。満願の日、神のお告げがあり、そのお告げに従って海の浅瀬を掘ると、温泉の湯が湧きでてきました。その湯で父の刀傷を治したと言われています。これが日奈久温泉の物語の始まりとされています。このエピソードが伝説となり「親孝行の湯」としても知られるようになりました。
さらに日奈久の湯は傷に効くという噂が人から人へと伝わり、多くの人が日奈久に集まり始めました。現在の日奈久温泉センターが元湯であり、六郎が温泉を発見した場所は、海だったようです。六郎が温泉を発見した伝説から、神を祀るために建てられたのが温泉神社です。その本殿には、なんとも美しい欄間の彫刻や日奈久の町を神社から一望できる景観は、たいへんすばらしいものです。
肥後・薩摩の殿様も入った湯
海に面している日奈久地域は、江戸時代には干拓が進みました。1658年には、おもてなしの湯として藩営の湯が作られ、殿様やその家族が入れる「御前湯」、その家来が入る「お次の湯」、平民のための「平湯」と三つの身分で分けられ、画期的なものでした。参勤交代として通った薩摩街道が今でも残っており、薩摩の島津公も旅の疲れを癒すための憩いの場として愛用していました。さらに、明治には見違えるほど温泉の町として発展を遂げます。「藩営の湯」、湯女「おきん」の評判で日奈久の名声も高まり、定期船の往来や人力車、鉄道の延長で交通の便が良くなり、宿がどんどん増え、「どこよりも日奈久」と多くの人々がこの地を訪れました。
西南の役が1877年(明治10年)に勃発した際には、官軍が上陸した地として知られています。八代屋旅館には鉄砲の弾の跡が今でも残っており、当時の激戦ぶりが伺えます。
昭和5年9月に、俳句で有名な種田山頭火もこの地をふらりと訪れ、「温泉はよい。ほんたうによい。ここは山もよし海もよし。出来ることなら滞在したいのだが、いや一生動きたくないのだが」という「行乞記」を残し、三泊もしていきました。宿泊した旅館「おりや」は今でも当時の姿を残し、山頭火の泊まった部屋がそのまま残っているのはおりやだけです。現在は、「九月は日奈久で山頭火」という、山頭火にちなんだイベントを開催しています。
日奈久の”今“の魅力
時代は移り変わり、多くの娯楽施設の発展などに伴い、日奈久からは、次第に客足が減ってしまいます。しかし、最近では若い年齢層からの人気が復活しつつあります。昔のレトロな作りの宿や町並みなどに魅力を感じ、癒される場所と評判を呼んでいるようです。3年後(2009年)には、温泉発見から600年を迎えますので、昨年に日奈久の町並み散策、特産品・工芸品などを紹介する「日奈久温泉街案内人の会」というボランティアガイドを立ち上げました。様々な活動を行っており、全盛期の繁栄復興を目指しています。
また、日奈久の魅力は温泉だけではなく、陶磁器で有名な高田焼は、上野喜蔵が日奈久近くの高田に窯を開いたことから高田焼と呼ばれ、今でも代々の技術を受け継いでいます。また、竹細工の生産地域としても知られています。繊細な竹を見事な技と手法で編んでゆく手さばきは見事です。このように日奈久温泉の魅力は豊富にあります。
薩摩街道の温泉地
日奈久の温泉は弱アルカリ単純泉であり、昔と変わらず傷に効果があり、他にも女性にとっては美肌効果やデリケートな赤ちゃんにもいい優しい湯です。このすばらしい泉質の温泉を、昨年から発足させた「日奈久温泉街案内人の会」が、もっと多くの方に知ってもらい、癒されてほしいと思い一生懸命PR活動を行っています。薩摩街道の温泉地として今までも、そしてこれからも盛り立てていきますので、皆様もぜひお立ち寄り下さい。お待ちしております。
【山頭火を記念した句碑】 |
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