ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.150 「茶道肥後古流と細川文化」

講師/ふるさとかたりべ塾塾長 徳永 紀良 氏

 お茶の歴史は古く、日本に独特の文化として根付いています。そこで、熊本に古くから 伝わる茶の湯「肥後古流」との関わりを紐解きます。細川文化の代表とも言うべき肥後古 流の背景を辿っていくと、見えてくる文化の歴史。今回は、戦国の時代にその粋を華ひら かせた細川文化のお話を巧妙な語り口で徳永紀良氏にご講話頂きました。

日本とお茶の歴史

 日本人にとってお茶は暮らしと関わりが深く、日常的に使う言葉にもよく現れています。 「無茶苦茶」「お茶をひく」「へそで茶をわかす」など「茶」の文化が根付いています。
 そもそも喫茶は中国・唐王朝の時代に雲南省で始まり、平安時代に最澄(比叡山開祖) が日本に伝えました。その頃はまだお湯で葉をほぐして飲むような団茶といわれるスタイ ルでお茶は薬用として用いられていました。
 次に栄西(臨済宗開祖)が、平戸(長崎)、脊振(佐賀)、早良(福岡)で茶園を開き広 めました。京都・栂野に鎌倉幕府三代将軍源実朝にお茶と『喫茶養生記』(栄西著・茶の効 能などを記した医学書)を献上しました。こうしてお茶は親しまれ、八代将軍足利義政の 頃、共に茶を楽しんでいた村田珠光(むらたじゅこう)が「茶道」を確立。また、その茶 道を完成させたのは珠光の弟子である武野紹鴎(たけのじょうおう)で、千利休の師でも あります。彼ら古今の名人三人衆によって今日の茶道が確立しました。

唐物茶器で争う権力

 茶道の確立と共に、茶器の存在価値も高くなりました。戦国武将たちは名器を手中に納 めたいと望み、中でも織田信長、豊臣秀吉らは熱心で、茶器の「名物狩り」を競っていた そうです。「領地よりも茶器の方が価値が高い」時代でありました。名器を所持することは 富と権力、知識の象徴であり、経済的にも地位的にも大変価値のあるものとされました。
 その頃頻繁に催されていた茶会は、後に歴史を動かすような人物らの出会いや交流、話 し合いがあった場と思われますし、茶道具ひとつで権力の争いが生まれました。茶道は今 と違って世を渡るに必要な処世術であり、情報交換の場となりました。武将は戦術に長け ているだけでは生き残っていけない時代になったのです。

細川幽斉と茶

 細川氏の初代である幽斉は日頃から「お茶を点てることができなければ武士じゃない、 『文武』を兼ね備えてこそ武将である」と言っていました。
 武将の子は武術の他に算術、医術、包丁(料理)、茶の湯が必須科目とされていました。 それらは戦術の上で必要なものであり、とくに茶の湯は「社交の述」「美の宗教」「書生の 哲学」でした。加藤清正も「恥をかかないように」と肥後では重臣たちに茶の湯を学ばせ たりしたということです。強いだけが武将の勲ではないという考え方です。

肥後古流の源は二代忠興にあり

 千利休の高弟に「七哲」と呼ばれる人々がいます。荒木村重、古田織部、織田有楽斉、 高山右近、蒲生宇氏郷、前田利長、そして細川忠興です。茶の湯にのめり込む事のなかっ た父・幽斉と違って忠興は大変熱心でした。
 熊本にはもう一人利休の弟子、松井家初代康之がいて、松井家には利休が切腹する直前 に書いた手紙が残っています。千利休を見送りに行けない康之はまず利休に宛ててその旨 の手紙を書きました。それに対して「羽与様(細川忠興のこと)、古織様(古田織部のこと) が思いがけず見送りに来られた」という返事が返ってきたものです。「七哲」の中でも古田 織部は千利休が千五百九十一年(天正19年)に切腹した後、秀吉の命令で御茶頭(茶の湯 のトップ)に君臨し、大坂の役が終わるまでの間、徳川将軍の御茶頭として一世を風靡し ていました。

「語りつづける物語」とは

 肥後古流の開祖は利休の孫婿・古市宗庵が三代忠利に藩の茶道方として呼ばれたことに 始まります。
 肥後古流は宗庵の弟子、萱野隠斉(古田織部の弟)、小堀長斉に受け継がれ、それぞれ古 市流、萱野流、小堀流と確立され、また、古市流は十代目を過ぎたとき後継者がおらず、 武田家が継ぎました。今は武田家と小堀家がこの作法を受け継いでいます。
 肥後古流の特徴は武家文化です。幕末まで武士階級のみに伝えられ、町人、商人にはほ とんど伝えられませんでした。
 もともと戦国時代のお茶というのは眠気を覚ます、もしくは戦いの中でほっと一息つく という役割をしていました。それが文化にも重きをおく細川家において、茶道の形が整え られ、細川文化の一つとして数えられる肥後古流が誕生、継承されたのです。その意味で は肥後古流は現在に伝わる茶道の基礎と武家の作法を色濃く伝えている文化といえるでし ょう。

水前寺成趣園・古今伝授の間