花岡山には沢山の歴史が埋もれています。
加藤清正、細川藩、西南戦争など各時代ごとの史跡も豊かにあります。
そこで、「くまもとの旅」編集長の末吉駿一により、思いを馳せながら花岡山に登る旅をご案内。
歴史のつづれ坂、花岡山に登る
JR熊本駅の西北に円い小高い丘があります。標高132メートル。頂に仏舎利塔がある花岡山です。
この"丘"にも熊本の次代・次代の歴史が一杯詰まっています。
見晴らしもよく熊本城が眼下に抜きんでて高く望めます。
遠くには阿蘇の噴煙も。夜景も素晴らしいものです。
今日は、花岡山への旅のご案内です。
市電「祇園橋」で下車。祇園橋の架かっている川は坪井川、すぐ横は大きな白川がゆるくカーブしています。
「祇園橋」という京風の名があるのは歴史があります。
平安朝の時代、この近くの二本木に国府が水前の方(市電「国府」電停一帯)から移されて、この一帯は九州第一の行政の中心地として栄えました。
有名な清少納言の父であり、歌人である清原元輔も国司(地方官)として肥後に赴任してきた歴史もあります。
国府時代の名残のある地名
京から下ってきた国司たちは京を慕いこの一帯に祇園宮、清水寺、春日寺など京都ゆかりの名前を付けた多くの社寺を創建しました。
花岡山もかつては祇園山と呼ばれていました。
JR鹿児島本線の線路を跨いだ陸橋を渡ると丸くくりぬいた石の山門、清水寺があります。
十六羅漢や豪潮の宝篋印塔で知られています。
花岡山を少し上ると、乳水の標木がありました。
この湧き水は乳の出がよくなるご利益で水汲みの人が多く訪れます。
阿蘇殿松、西南戦争の跡を見る
六合目近くに「阿蘇殿松の跡」の碑があります。
阿蘇神社宮司の先祖・阿蘇惟光が讒言にあい秀吉から切腹を命じられ、この地で故郷阿蘇を恋いながら命を絶ちました(1593)。
まだ十二歳であった惟光を哀しみ一本の松が植えられました。
鳥居をくぐると招魂社、横に茶屋と売店。裏手に廻ると熊本城が見下ろせます。直線距離2キロメートル。
西南戦争のとき薩軍はここに大砲を運んで城をめがけて砲撃しました。その「砲座の跡」の石碑が立っています。
西郷どんもやきもきしながら幾度もここから要塞熊本城を見たことでしょう。
官軍墓地では神風連の乱で倒れた官軍兵百十三人が眠っています。
どことなく古色蒼然とした趣の墓石の間に安岡県令や種田司令官の墓が大きく坐っています。
横には乃木大将の娘・恒子の墓も。乃木大将が第十一旅団長(少将として熊本に再赴任時代(明治18年)に娘さんが早逝しました。
左手には奥手の加賀山マリアの殉教の碑。キリシタン弾圧の時代の殉教者の墓です。
頂上へ
頂上の仏舎利塔には、インドの故ネール首相から送られた仏舎利が納められています。
早朝ならば信者や修行僧が塔の回りを経を唱えながら二巡・三巡している姿を見ることが出来ます。
頂上広場のすみずみを歩くと清正の兜岩、腰掛け松などが散在しているのに出逢います。
熊本城築城に際して花岡山と南へ続く万日山一帯の岩石を切り出して運びました。
陣頭指揮をとった清正が合図の鐘を松の枝にかけて打ち鳴らし、兜を脱いで岩の上に置き、腰を掛けて憩をとった由緒の岩ということです。
熊本バンド(同盟)の歴史も眠る
広場の南の端に出ると、「熊本バンド・奉教之碑」が建っています。
明治9年一月三十日の早暁、熊本洋学校の生徒三十五人の有志がキリスト教をもって日本を救おうと祈祷会を開き、その趣旨を広くアピールするには山頂が最適としてここを選びました。
幼い徳富蘇峰や横井小楠の長男も参加しました。短刀を前に母から「改宗しなければ母が死ぬ」…と。金森通倫、宮川経倫もいました。
帰途は別の道、通称地獄坂をだらだらと下ってくると北岡自然公園の入り口に出ます。
花岡山を歩くと、くまもとの、いや日本の歴史の、そのときの由緒と名残が埋もれているのに気付くことが出来るでしょう。
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