ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.147 「横島干拓四〇〇年」

講師/前横島町文化財保護委員会 会長 米村 忠 氏

 横島町に残る歴史。それは干拓によって生まれた町であること。
加藤清正が肥後入国の翌年から菊池川河口に広がる遠浅と島に目をつけ干拓事業に取りかかりました。数々の難工事を伴い、人柱の史実を残しながらも次代の細川氏、明治に引き続き昭和には国営事業となった有明海干拓の歴史についてご講話いただきました。


横島は海から生まれた町

 10月3日に合併により「玉名市」となった横島町。「横島」という町名が示す通り、昔は陸続きではなく島でした。広大な干拓により陸続きとなったこと、それまでには長い時間と多くの人々が関わった干拓事業の歴史があり生まれたのが横島町です。
 佐々成政の失政により、その後任として肥後の北半分(緑川より北)二十五万石の領主として加藤清正が天正十六年六月に隈本城へ入りました。清正は藩内一円の巡視を実施し、その折菊池川の河口一帯に広がる広大な遠浅を眺めました。当時の玉杵名湾には何百年にわたり菊池川と錦川が運んで来た土砂により多くの州ができていました。横島の内側湾内には西に大浜の州を初めいくつもの島々が散在し遠浅が出来ていたと思われます、清正はそこに目をつけました。
 清正はまず菊池川の流れを変えることに着手し、西側の潮受けとして横島の西端の栗之尾に至るまでの海岸堤防を構築しました。これを西塘と言います。これに対して東塘という5㎞の潮受け堤防を築きこれにより小田牟田新地六百八十町の干拓地が出来ました。


人柱をして完成した石塘

 小田牟田新地干拓地で最も困難だったのは「石塘」の築堤工事でした。横島-久島山間(400m)は底が深く潮の流れが速く瀬戸が渦巻き、遠い昔から「丹倍ヶ淵」の名で舟人等を恐れさせた場所でした。この築堤には大勢の人員と多くの石材、木竹、土むしろ、墓石に至るまで大量の資材を用いましたがことごとく流されました。従ってその工事は何度も失敗し少なからず犠牲も出したと考えられます。もはや人力だけでは覚束ない、と思われたその時、ある人が古例にならって人柱を立てたらとの提案があり人選をして人柱を立てる事になりました。人選の条件に「横布を当てて袴をつくろっている者」を上げて調べてみるとその人だけが横布を当てていたということで選ばれました。昔から「横布を使うと人柱に立たされる」という言い伝えがあるのはこのためです。

石塘完成に導いた人物像

 慶長十年(一六〇五)十一月二十五日、いよいよ潮止めを迎えると、その人は村人たちの見守る中、水中に立ちました。横島山の頂上では大勢の僧侶たちがその冥福と工事の成功を祈って法華経を読経し、その人は土石の下に姿を消しました。これにより難工事も見事に成功しました。石塘築堤工事により古来海上の一孤島であった横島が玉名の陸地と接続詞広大な新地が完成しました。最初の鍬入れの天正十七年一月から石塘築堤17年の歳月をかけ小田牟田新地干拓が終わりました。
 横島の伝説によると人柱に立ったのは大園村の庄屋伝作であったとされていますが「藤公遺業記」によると中富手永(郷)千田村(鹿本郡)の者人柱に沈むとなっています。また、鹿本郡植木町のあるお宅には先祖が横島で人柱に立ったと言い伝えられています。どちらが正しいという事は判断できません。しかし人柱の歴史は事実であり石塘の人柱が立ったところには「鎮魂慰霊」と刻んだ小さい祠が建てられ、現在では「人柱之碑」が建てられています。

細川家の干拓が始まり昭和に完成

 寛永九年(一六三二)小倉から細川忠利が肥後五十四万石の城主として熊本に来ました。翌寛永十年から細川家により干拓工事が始まります(横島山の南側)。この干拓を内家開と言い後に細川藩が藩費で築造した新地を官築開と言います。その後有吉家による干拓が進み、土地の半分を占めるほどになります。また、寛永二十年に完成した陣殿開という陣佐左衛門が島原の乱の時、敵の大将の首を取った功績による特権で出来た新地、岩井口もあります。
 明治には村の有志の出費による干拓もありましたが、昭和二十一年より食糧増産の為に農林省によって干拓工事が始まります。そして二十余年の歳月をかけ昭和四十二年五月潮止めが出来ました。その面積は四百七十九町歩。四十六回に及ぶ干拓によって横島町は出来ました。一番大掛かりだった石塘の築堤工事に基づき読経した経本を埋めたところを経塚と言います。この築堤工事に当たり多くの犠牲者と人柱に立った人の霊を祀ったのが大園にある本田大明神です。干拓の歴史は今なお横島の中に色濃く残っているのです。また、この干拓事業の「有明海旧干拓施設群」(明治期建設)は学術的にも重要な遺構であるとし現在、県指定重要文化財となるよう答申されています。