ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.143 「大局がみえなかった加藤忠広」

講師/熊本市南部地域歴史研究会 会長 西 輝喜 氏

 日本三名城といわれ、加藤清正の優れた土木治水の技術で、 七年をかけてつくりあげられた熊本城も平成十九年には築城四百年を迎えます。
 今回は、その華やかな舞台裏で、加藤清正の後をうけ藩主となった忠広が辿った悲運の歴史を紹介していただきます。

順風と翳り

 慶長十六年(一六一一)三月、家康と秀頼の二条城の会見に立ち会った清正は、四月下旬、船で帰る途中倒れ、 熊本城で六月二四日、その一生を閉じた。死因は脳溢血という。嗣子の虎藤はまだ十歳、加藤家は廃絶か小大名への転落かと、 藩内は激しく動揺した。
 重臣たちが存続のため、必死に奔走した結果、幕府は襲封を許可し、五人を家老に任命、家老合議制による執政とした。
 虎藤に翌年四月一日、五百万石の領治朱印状が与えられたが、幕府は九ヶ条の掟書をだして、藩政の組み替えを行った。 この結果、加藤右馬充が筆頭家老兼八代城代となり、筆頭であった加藤美作が並みの三千石に格下げとなった。 これがお家騒動のきっかけとなったのである。
 十八年二月、虎藤は将軍秀忠から一字をもらい忠広と名乗った。翌年四月、幕府は秀忠の養女を忠広に嫁がせるなど、 忠広の前途は順調そのものであった。
 しかし元和四年(一六一八)加藤右馬充派(馬方)の下津棒庵が加藤美作派(牛方)の謀反を幕府に訴えたことから、 加藤家の内紛が表面化した。一歩も譲らず両派の主張は、幕府重臣たちでは決着がつかず、 将軍の直裁を仰ぐと言う醜態をさらし、馬方の勝利となった。牛方は全員流罪、断罪となったが、 忠広が責めを免れたのは将軍養女・琴姫との婚姻が幸いしたのであろう。

修羅の道をたどった忠広

 忠広の蔵入分(藩の収入)は、全領地方七三万石中、地方知行(家臣に土地で受給)を除けば、わずか二〇万石である。 当時は三つ八分であるから年貢として納入されるのは約八万石程度である。加えて元和五年の大地震で麦島城の倒壊、 松江に築城と出費は嵩む。年貢を徹底して取り立てるより他、忠広にはなす術がない。鉄砲衆を村々に派遣して、 未納年貢を脅し取り、さらに農民に必要な山野、藪、沢まで奪った。堪えかねた農民たちは、 人身売買や他領への逃散などで凌ぐほど、農民はたちまち荒廃していった。

大局がみえない忠広

 将軍秀忠とお江の方は、二男竹千代(家光)より、才気も容貌も勝れている三男国松(忠長)を溺愛した。 次に将軍職を継ぐ者は?下の者はそれを悟っていた。竹千代の乳母福(春日局)には、それが癪にさわり、 ついに駿府城へ駆け込み、大御所家康に直訴した。福は美濃国稲葉城主、稲葉正成の妻であったが、夫の愛妾を手に掛け、 夫と四人の子どもを捨て家出したほど気性の激しい一面があった。
 加藤忠広は三歳年下の家光より五歳下の忠長と馬が合う。忠長へのご機嫌伺いに参上するのを楽しみにしていた程の 打ち解けようであった。福の弟、斉藤俊光は五千石を拝領して清正、忠広と仕えていたが、忠広と忠長の親交が深まると、 暇を願い出て熊本から退去し、幕府へ同石高で召し抱えられている。
 元和九年(一六二三)秀忠は引退して大御所となり、三大将軍は家光となる。 寛永三年(一六二六)母お江の死。だが五五万石駿府藩主忠長の目にあまる振る舞いはやまない。忠広の駿府詣でも続いた。

改易

 寛永九年一月、大御所秀忠死去。
 同年五月忠広に「二十一ヶ条の不審の条々を申し渡す。至急出府せよ」との幕令が届いた。忠広が品川に着いたとき、 池上の本門寺で待機せよとの指示。六月一日平素の行跡正しからずの名目で五四万石没収の幕命である。
 忠広は出羽庄内(山形県)に、生涯一万石の沙汰で、直ちに配所へ出発した。従ったのは母の他、家臣など七〇余名。 五三歳で没。
 光正は飛騨高山(岐阜県)生涯百人扶持。途中で自殺説、一年後病死説などある。
 幕命により、福の子稲葉正勝が熊本城受取りに来た。正勝はその功により、丹波守四万五千石から、 八万五千石小田原藩主に抜擢される。
 翌寛永一〇年徳川忠長は切腹を命じられた。

〔 熊本城 〕