ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.141 「知られざる阿蘇家と矢部郷のかかわり」

講師/山都町町長 甲斐 利幸 氏

中世、熊本で絶大な勢力を誇っていた阿蘇家と矢部郷は深く長居関わりを持っていました。 「浜の館」と呼ばれる館が矢部にあったり、矢部の目丸地区では阿蘇家を保護した歴史も伝えられてあります。 平成17年2月に矢部町、清和村、蘇陽町が合併して誕生した山都町の初代町長甲斐利幸氏にあまり知られていない 阿蘇家と矢部郷との歴史についてご講話いただきました。その要旨をご紹介します。

矢部を拠点とした阿蘇家の目的

 熊本を代表する一大豪族であった阿蘇家。日本で系譜がはっきりしているのは天皇家と出雲の千家、 そして阿蘇家だそうです。現在の91代目まで連なる阿蘇家の墓は阿蘇神社にありますが、その墓の入り口には “(これは)阿蘇家300年の墓である。阿蘇氏が最も県政をふるったのは矢部在住の時である”という碑文が書かれています。
 阿蘇家が矢部に来たのは1207年。阿蘇を勢力拠点としてきた阿蘇家が何故矢部に入ってきたかというと、 今は車社会なのであまりぴんとこないかもしれませんが、峠を境に接しているという地縁があります。 さらに当時矢部が豊かな地域であったため、拠点となる館を置くに適したところだからと思われます。 当時脅威であった北条氏のしめつけから逃げるためだったという説もありますが、阿蘇の地蔵峠からみると、 その裾野は熊本市まで伸びています。矢部は標高450mもあるので、この高い所を拠点にし、また、 緑川の水運を利用して肥後平定を目論んだのではないかと思っています。


現代に残る阿蘇家の“証”

 かつては深い血縁で結ばれていた阿蘇家と矢部ですが、現代ではそれをなかなか実感することはありません。 阿蘇家の館であった「浜の館」もその一つで、近年までは伝承に過ぎませんでした。しかし1974年、 県立矢部高校の改築時にグラウンドから基礎石が発見され、館の遺構が発見されました。それに伴い青磁器や白磁器、 武具の装飾品などが出土。これらは阿蘇家の宝物で、ほどなく国の重要文化財に指定されました。 これは町の皆さんにも具体的なものという形での関わりを知ってもらった機会ではなかったかと思います。
 他にも阿蘇家とゆかりの深い地名が残っています。国道445号沿いに“おたっちょ坂”という坂がありますが、 その途中に阿蘇惟種の墓と言われている墓があります。また、“おびょう坂”という坂にも阿蘇家の墓があります。 矢部高校の敷地に“五老ヶ滝川”がありますが“御前渡し”と地域の方は呼んでいます。阿蘇家が阿蘇への往来のため、 この川を渡ったところだと考えられます。さらに矢部の「男成神社」ですが、 阿蘇家の当主が元服したとき「男成」と名前を変えたということで名前がついたと言われています。ここで最近、 阿蘇家代々の宝である刀が発見されたそうです。


阿蘇家衰退するも、加藤清正の取り立てにより復活

 阿蘇の末社は大きい時には岡山、または青森まであったという説もあります。数では400~600社あるそうで、 改めて矢部在住380年の頃の阿蘇家の勢力を感じさせます。
 豪族としても権勢をふるっていた阿蘇氏ですが、戦国の代になると薩摩の島津氏に追われることになります。 矢部には目丸という厳しい地形の所がありますが、阿蘇家はここに避難。幼い当主を守るため、 地域の人は棒術を身につけました。それが「棒踊り」という伝統芸能となって今も残っています。また、 当時匿って貰ったお礼として阿蘇家の品を下賜されたそうですが、 山崎家という所では今でもそれを家宝として大事にしているという話を聞きました。
 断絶の危機に陥った阿蘇家ですが、肥後国を治めることになった加藤清正に取り立てられて再興しました。 神職として改めて重い地位についてからのちは神職一本となり、現在まで続いています。


新しい町によせて

 矢部郷のシンボルである通潤橋は昨年が完成150年でしたので、シンポジウムやサミット等を行い、 8月には皇太子の行啓もありました。矢部町を発信できた良い機会だったと思っています。 2007年は阿蘇家が矢部に入って丁度800年にあたります。 ですからこれを記念して何かイベントができないかという思いを持っています。
 2005年2月に矢部町は合併し、山都町が誕生しましたが、新しい町名には“山にあって都の賑わいを” という願いが込められています。過疎化の波も寄せていますが、 かつての阿蘇家の勢いに思いを寄せながら魅力あるまちづくりに力を尽くしていきたいと思っています。


〔 通潤橋 〕