玉名には意外と知られていない奥深い歴史が存在します。
装飾古墳をはじめ、水運での繁栄、国内・国外との交易など玉杵名の里は歴史的魅力がたくさんあります。
玉名(タマナ)の地名は『日本書記』に書かれている、「玉杵名邑」(タマキナムラ)というところから、
「タマキナ」が「タマイナ」に音が変化し最終的に「タマナ」になったと言われています。
今回は玉名市歴史博物館「こころピア」より牧野館長をお招きし、玉杵名の里のあれこれを分かりやすくご説明頂きました。
人と人の心と心をつなぐ
はじめに当館の「こころピア」という名前は「玉名地方の歴史的なものを愛して人と人の心をつなぐ施設ですよ」
というメッセージが込められています。「ピア-pier-」は英語で桟橋と言う意味です。
私どもは「いつも気持ちを持って応対しよう。そうすると何か開けるんじゃないか」といつも言いつつ、
あるいはお互い励まし合いながら館の運営をやっている所です。
川とともに発展した玉名
博物館ではテーマを「水運」として交易に関するものを常設展示しています。
もともと、玉名は港町です。
菊池川の上流、菊池とか山鹿からの水運を元にしての交易が柱になって栄えました。
川尻あるいは八代などと同じように盛んでした。
菊池川は球磨川などと違い熊本の川の中でも、非常に勾配が緩やかであることが大きな要因の一つです。
いかに、先人がそういった菊池川の自然の状況を的確に見て判断し、水運を行ったのかがわかります。
繁栄のはじまり考古学上の五つの事柄
玉名の繁栄は五つのキーワードによって紐解くことができます。
まず、「江田船山古墳」。
周知のように、この「江田船山古墳」から、文字が刻まれた太刀が出土しました。現在、その太刀は東京の国立博物館に
ありまして、東京の国宝登録になっています。熊本県所在の国宝でないことが非常に残念です。付け加えますと、
今のところ熊本には国宝がありません。しかし、出土した土地が熊本ということには大きな価値があるでしょう。
考古学上においても、非常に有名なこの、「江田船山古墳」は菊池川の玉名市より少し上流部の菊水町にあります。
2つ目「斉藤山遺跡」です。玉名市と隣接している天水町で弥生時代前期の土器の層から、当時日本で一番古い鉄製品として、
鉄の斧が出土しました。
3つ目「院塚古墳」。船の形をした石棺、あるいは鏡などが出土しています。今、宇土市の方で石棺が復元されていますが、
文化のゾーン・流れの違いで石棺の形と、装飾の部分では異なっています。
そのような石棺が有明海を出て玄界灘、瀬戸内海を通って、大阪、奈良あるいは香川などの王族、
豪族のお墓に実際使われています。
4つ目「永安寺古墳」です。月刊誌の「太陽」で日本の原始絵画が特集されました時の表紙が玉名の永安寺東古墳の模様です。
この模様が月刊「太陽」の表紙の絵に使われて、初めて『装飾古墳』と言う言葉が生まれ、にわかに熊本県の教育委員会をはじめ、
関係者が調査にのりだしました。全国の古墳、あるいは石棺などに描かれた模様の入ったものに注目が集まりました。
その中で熊本県は装飾古墳が多い地域だということが当然のことながら、分かってきた訳です。
その中でも特に菊池川流域の山鹿から玉名にかけてです。「永安寺古墳」は現在整備中ですが、
あと一年後ぐらいで公開できると思います。
5つ目「柳町遺跡」です。柳町というところから最古式の文字が書かれた木製の鎧が出ました。そういうことで考古学の中で
このような五つの事柄が、玉名あるいは菊池川流域で起こっております。
太宰府と同じ型の瓦が出土
玉名郡司の日置(ヘキ、ヒキ)氏の氏寺と考えられる立願寺廃寺から出土した鬼瓦がありますが、これは太宰府のお寺の瓦と殆ど同じ型で作られたものです。時代としてもほとんど一緒です。玉名の郡レベルのお寺の瓦が太宰府の国のレベルの瓦と一緒と言うことは、玉名地方は重要ということ、太宰府からしても親しい関係、要するに太宰府がそれだけ、玉名に対して、力を入れてやっていたということが言えるのではないかと思われます。
まず自分のふるさと、地域を知る
まだまだ玉名についてお話したいことはたくさんありますが、「歴史を語らずして未来は語れない」と言います。まず地域の方々に玉名のことを一つでも知っていただいて、玉名作り、熊本作り、最終的には日本作りを思い描き、今後も博物館として取り組んで参りたいと思います。
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