ことし(2004年)はラフカディオ・ハーンこと小泉八雲の没後百年にあたります。
7月23日の本妙寺頓写会の夜には本堂で清和文楽による「雪おんな」上演などの催しが開かれます。
そこで「熊本八雲会」の中村青史会長に「熊本のハーン」と題してお話してもらいました。
要旨をご紹介します。
多くの作品を残した熊本
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が熊本の春日駅(現・熊本駅)に降り立ったのは明治24年11月のことでした。
それから日清戦争の始まる同27年、神戸へ去るまでの丸々3年間を五高の英語教師として熊本で過ごします。
ところで、ハーンといえば松江というイメージが強いようです。しかし松江に住んだのは1年間に過ぎません。
その松江時代の「知られざる日本の面影」にしても書かれたのは熊本でした。
どうも熊本はゆかりの地にしては損をしているようで残念ですが、それは夏目漱石にもいえます。
松山の1年に対して熊本は4年3ヶ月。
しかし知名度は松山に及びません。
それはともかく、今年はハーンが亡くなってちょうど100年。
この節目の年に熊本でもさまざまな企画が予定されています。
この機会に熊本のハーンについてあらためて考えてみたいものです。
「柔術」「石仏」「停車場にて」「夏の日の夢」「橋の上」などゆかりの作品や舞台には事欠きません。
ここでは「願望成就」と「極東の将来」についてふれてみたいと思います。
「願望成就」
ハーンが熊本で最初に住んだのは手取本町の家です。
現在は少し離れた地(鶴屋百貨店裏)に移転され八雲旧居として保存されています。
ハーンが毎日礼拝したという大きな神棚も拝めます。
2番目が坪井の家です。ここは残っていませんが、跡地前にあるハーンお気に入りの地蔵堂は町内の方々の手で大切に守られています。
「願望成就」の舞台はこの家のことと推察されます。
日清戦争が勃発し、軍都・熊本は騒然たる気配につつまれます。
そんなある日、小須賀浅吉という青年が訪れます。
浅吉は松江中学時代の教え子で、出征を控え暇乞いを告げるためにやってきたのでした。
浅吉は千載一遇の機会が到来したことを喜び、死を一向に怖れていません。
二人は私語のあり方といったものについて語り合います。
後日、ハーンは新聞で戦死者名簿の中にある名前を見つけます。
浅吉でした。
そして「願望成就」は次のようにして終わります。
「万右衛門は、おそるおそる畏まって、こんなことをいった。
『きっと何でございますよ、旦那さまがなにかひとことおっしゃっておあげになると、浅吉さまのたましいが喜びますで。浅吉さまは、旦那様の英語がおわかりにならっしゃるでな』
わたしは浅吉に話しかけた。
すると、浅吉の写真が、香華のけむりのなかから、にっこりとほおえんだようであった。
自分のいったことは、死んだ浅吉と神々だけに通じることであった」(平井呈一訳)
「極東の将来」
簡易・善良・素朴。
「熊本スピリット」として提唱されたこの言葉はご存知の方も多いと思います。
これはハーンが五高生を前に「極東の将来」と題した講演から採られたものです。
私は「ハーン没後百年」に何を考えるべきかといえば、この「極東の将来」をもう一度問い直してみること。
それが非常に重要なポイントだろうと思っています。
中島最吉訳でいくつかを引用してみます。
「自然は偉大な経済家である。自然は過ちを犯さない。生き残る最適者は自然と最高に共存できて、わずかなものに満足できる者である。宇宙の法則とはこのようなものである」
ハーンが嘆いた急激な近代化の弊害をいまさらのように思います。しかも、その弊害はますます深刻化し危険な状態に直面しているといって過言ではありません。
「私は将来は極西のためでなく、極東のためにあると信じている。(中略)しかし、日本の場合は危険な可能性があるように思う。それは、古来の、素朴で健康な、自然な、節制心のある、正直な生き方を放棄する危険性である」
まことに耳が痛い。
ハーンの先見性に富んだ鋭い指摘を真剣に受け止めなければなりません。
ハーンは講演の終わりをこう結びます。
「生活様式の素朴さと生活の誠実さは、古くから熊本の美徳だったと聞いている。もしそうであるなら、日本の偉大な将来は、生活中で単純、善良、素朴なものを愛し、不必要な贅沢と浪費を憎む、あの九州スピリットとか熊本スピリットといったものをこれからも大切に守っていけるかどうかによる」
ハーン没後百年。それは過去を振り返ることでなく未来を見つめることだと思います。
少なくとも熊本においてはそうです。
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