NHK大河ドラマ「新撰組!」が始まり、幕末への関心が高まってきました。この時期、肥後の動きはどのようなものだったでしょう。そのことを知っておくと史実が身近になり、興味もさらに増すことと思われます。
そこで今回は、「肥後勤王党と新撰組」と題して、郷土史家の荒木栄司氏に幕末という時代の流れをわかりやすくお話しして頂きました。
外国の脅威・幕府の疲弊
幕末、心ある日本人たちに、国家存亡の危機感を抱かせた大事件として、英国と清国間のアヘン戦争がありました。この戦争は、英国領インドにある英国系の貿易商社と清国との貿易収支が英側の赤字になったので、清国が禁止していたアヘンを密輸しようとしたので、アヘンを積んで入港した英船を清国側が焼き打ちしたので戦争となり、結果は、清国が謝罪して弁償し、更には香港と割譲することになったのでした。アジアの大国清の状況を知って日本人は大きな衝撃を受けたのでした。
ところで、日本国内の状況はというと、江戸時代は低温の影響で、異常気象が続き経済の基本である農産物の減産が幕府の藩の財政を圧迫、減税要求の農民一揆が頻発、細川藩でも打ちこわし、相良藩でもナバ山事件など城下町で商家が打ちこわしにあい、また、両藩とも、幕府自身も藩士・幕臣たちは棒禄も大幅に減らされて、武士たちの士気も低下しているという有様でした。
こうしたときに、米英仏露など諸国が日本との交易を強要してきたのでした。
蒸気機関で動く軍艦、大砲、銃なども進歩したものを装備した外国の強要に、幕府も開国を決意せざるを得ず、永年の例を破って、朝廷にもこの旨通達しました。
公武合体か天皇親政か
徳川幕府は、朝廷に政事介入するな、という禁令を出していたのでしたが、開国決定にあたって、朝廷に通達したのは、幕府の権威が国内治安の悪化に無策であったので衰えていたこと、更に、国学という日本の歴史研究が盛んになり、日本が神代以来、天皇が統治してきた国柄であることが、広く知られるようになって、尊皇思想が広まっていたことがありました。
ときの孝明天皇は、天皇の務めである皇祖神の祭祀が外国の介入で断絶することに危惧感を持ち開国絶対反対を唱えられました。幕府とは外交政策を異にしながらも、国内政務は従来どおり幕府に任せることにされました。この天皇の矛盾した方針が幕末の政局を錯雑なものにしたのでした。
諸藩主たちは、幕府と朝廷の会議で対策を立てようという公武合体論を提唱しました。細川藩もそうでした。
しかし、尊皇思想の持ち主たちの中には、幕府を倒し、天皇親政を復活させようとする勤王倒幕を考える人々が出てきました。勤王党と呼ばれます。
宮部鼎蔵、池田屋で自刀
当時、武力で幕府と戦える戦力を持っていたのは、いち早く近代装備の戦力を備え始めていた長州、薩摩、肥前藩でした。細川藩も大砲を製造したり、蒸気船を購入したりしていましたが、細川藩は元来幕府一辺倒でしたので、藩内では勤王倒幕は危険思想として弾圧されました。
しかし、肥後には阿蘇大宮司家などでも国学が行われていて、勤王思想家のグループがあり、彼らは藩にいては、倒幕運動ができないので、攘夷倒幕に積極的だった長州に行って行動をともにしました。
ところが、幕府が倒れた後の政局の主導権争いから、薩摩藩が会津藩と組んで長州藩を京都から追い出す(禁門の変)と、長州を京都に復帰させる運動をするため、肥後勤王党の宮部鼎蔵らは京都に潜入しました。
鼎蔵たちが会議を開いていた池田屋に治安維持をしていた新撰組が切り込んできて、首領格だった鼎蔵は皆を逃がした後、自決して国事に殉じました。(荒木栄司氏記)
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