ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.123 「 くまもとの平家伝承 」

講師/郷土史家  荒木 栄司 氏

平家落人伝承には哀調を帯びたロマンが流れ、私達のこころを打つものがあります。くまもとにはその足跡が多く残り、ゆかりの地巡りを誘います。そこで今回は郷土史家の荒木栄司氏に「くまもとの平家伝承」と題してお話ししていただきました。機会をみつけて、みなさんも平家落人の後を追ってみてはいかがでしょう。


肥後と平家


「判官びいき」といいます。日本人は勝者より敗者、それも悲劇的な最期を遂げた人物にひかれるようです。そして、愛惜のあまりその人物を生き返らせます。すると、死んだはずの人物があちこちをウロウロすることになります。平家落人伝承もこの流れの中に位置づけられます。

ただ熊本の場合はもう一つの事情があります。平家とのゆかりが強かったことです。平安時代、各国は大上中小に格付けされました。肥後国は初めは上国でしたが、後に九州では唯一の大国へと格上げされています。時の権力者にしてみればなんとしても押さえておきたい国です。平清盛は自ら肥後国司となり、ついには直轄地としました。肥後に落人伝承が多いのはこうした背景があったからと思われます。

ところで、清盛はあまり人気がありません。これに対し長男の平重盛は慕われました。清盛の横暴を押さえる役目を果たしたからです。矢部町の内大臣の地名は小松内大臣重盛を指します。平家落人たちが重盛を祭ってこの地に住み着いたといわれ、小松神社には重盛の象が安置されています。

矢部町には「今日の上臈(じょうろう)」と呼ばれる自然石が並んでいます。平家方の女性たちが夫や恋人を追ってここまで来たものの、白い石を源氏の白旗と見間違えて絶望のあまり自決したと伝えられています。


安徳天皇御陵


源平合戦では壇ノ浦で那須与一が「扇の的」を射抜くエピソードがあります。このとき船の舳先(へさき)に立ち、扇を高くかざしたのは玉虫という女性でした。彼女は御船の出身で、平家の死者を供養するために建立したといわれる玉虫寺の跡が、同町横手地区に残っています。

清和村には安徳天皇と伝えられる御陵もあります。不思議なことは安徳天皇は八岐大蛇(やまたのおろち)の生まれ変わりという説もあることです。近くに素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祭る神社もセットになってあります。これは平家滅亡とともに海の底に沈んだ三種の神器の一つ草薙剣(くさなぎのつるぎ)とかかわっています。

平景清という人はユニークです。逃げ上手、生き上手と言われました。壇ノ浦で生き延び、源頼朝の暗殺を企てて失敗します。しかし逆にその勇気を褒められて許されるものの、源氏が繁栄する世の中は見たくないと目をめぐって失明したと伝えられています。日向が最期の地とされ、宮崎にある生目神社は目の悪い人の守り神となっています。熊本とのかかわりではあさぎり町岡原に、景清を追ってきた娘とその母親の墓が残っています。


〔平家の里〕 〔久連子踊り〕
平家の落人にまつわる伝説や
当時の暮らしぶりを伝える資料館
毎年8/15、9/1、11/3に
久連子神社境内で披露される


落人の里


五箇所(五家荘)は落人の里として知られます。ここには平清経が登場します。清経(清盛の孫、重盛の三男)は壇ノ浦後、豊後の緒方家を頼り、そこの娘を妻とし名も緒方姓に変えます。そして、長男盛行を五箇所の椎原に、二男近盛を久連子に、三男実明を葉木に住まわせました。残る二つの地区の仁田尾と樅の木は菅原道真の子孫と称されており、それぞれに系図も伝わっています。

清経については世阿弥が謡曲「清経」を書き、「平家物語」では京都に残した妻との形見や手紙のやりとりが描かれるなど悲しいエピソードに彩られます。そうした悲劇的な人物像が落人伝承の主人公の一人に仕立てられていったのかもしれません。

この地に受け継がれてきた久連子古代踊りは平家踊りとも呼ばれます。頭にシャグマという久連子鶏の黒い羽を被り、鉦と太鼓の哀調を帯びた調べに合わせて体を小刻みに震わせながら踊ります。平家の子孫が遠い都をしのんで踊ったと言い伝えられています。

伝承や伝説は事の真偽を問うても始まりません。伝承の装いを借りて語り伝えられてきたもの、言い伝えられてきたものは何だったのか。そのことに想いをよせることが大切です。


〔きじ馬〕 〔花箱〕

華やかな都の生活を偲んで平家の落人が作り始めたといわれている