ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.122 「 歴史と史跡の伊倉 」

講師/玉名市文化財保護委員(玉名市伊倉在住)  高木 久美子 氏

玉名市伊倉は17世紀の初め頃、海外貿易の拠点港として栄えました。その史跡が今に残り、歴史散歩の好コースとなっています。町では、そうした文化遺産を活かしたまちおこしに取り組んでいます。そこで「歴史と史跡の伊倉」を玉名市文化財保護委員で、伊倉・光専寺の高木久美子氏にお話ししていただきました。要旨を紹介します。


四位官さんは御朱印船


玉名市伊倉はかつて港町としてにぎわいました。といってもピンと来ない方が多いことでしょう。お隣の玉名市高瀬と違って伊倉は海から遠く、花しょうぶで知られる裏川運河や俵ころがし跡などのような、いわゆる名所がないせいでしょう。これは加藤清正の菊池川堀り替えや干拓事業によるもので、また徳川幕府の鎖国政策も影響しました。高瀬の港が米の集散地として国内向けの港であったのに対し、伊倉の港は海外貿易の拠点として発展したからでした。

それでも今、伊倉の町を歩くとき、在りし日の国際港の面影をしのぶことができます。たとえば『船をつないだ 銀杏(いちょう)の木』『四位官(しいかん)さんは 御朱印船』。これは「伊倉歴史伊呂波加留多(いろはかるた)」にうたわれているものですが、ほかにも45句、伊倉のさまざまな歴史が織り込まれ、身近な歴史散歩の手引きとなっています。それらを"道づれ"にいくつかを紹介してみましょう。


伊倉両八幡は二つのお宮


伊倉八幡宮は「両八幡」と呼ばれ、道路をはさんで北八幡宮と南八幡宮が向き合って建っています。つまり『伊倉両八幡は 二つのお宮』です。このような並座したお宮は全国的にも大変珍しく、伊倉八幡の大きな特徴です。もとは一つのお宮とされていますが、二つになった理由については諸説あってはっきりとはわかっていません。両宮にちなむ北方、南方の地名があり、『わるが北なら おら南』とライバル意識?もあるようです。お祭りで有名なのが「ねり嫁行列」です。両宮ともに年2回(4月15日、10月15日)行われます。『ねり嫁行列 伊倉小町の勢ぞろい』

両神社をはさむ道はまっすぐ600m続き、伊倉町のメインストリートの商店街となっています。ここは「下地中分(したじちゅうぶん)」といって、鎌倉時代、領主と荘園の地頭の領地を分ける境界線でした。この通りの端に位置する唐人町に「船つなぎの銀杏」が樹齢600年といわれる大木の葉を茂らせています。この下の低地が「丹倍津(にべつ)」と呼ばれた港があったところといわれています。

その一人に通称「四位官郭公(しいかんかっこう)の墓」は子珍栄が建てたもので、中国様式の豪壮な特色をよくとどめています。


バテレン坂と吉利支丹(きりしたん)墓地


伊倉はキリシタン大名、豊後の大友宗麟の勢力が及んだことからキリスト教が入ってきました。バテレン坂の地名も残っています。『バテレン坂と吉利支丹墓地』。キリシタン墓はカマボコ型をしており、表面に十字が刻まれています。誰を葬ったのかはわかりませんが、フロイスの書に「シルバ修道士が重い病に罹り、その看病に医術の心得もあったアルメイダ神父を派遣したが、十日後に神に召された」といった旨が記されています。

なお、キリスト教は禁制後、隠れキリシタンとなりました。寛永11年(天草・島原の乱の4年前)伊倉唐人町で厳しい捜索が行われ、大事件となったことが記録に残っています。


永遠の補陀落(ふだらく)山に想いをえがく


伊倉が貿易港として発展したのは中世期、世はまさに戦国争乱の時代でした。その中にあって、ひたすら信仰に生きた人たちがいました。玉名駅近くの繁根木神社裏手にもありますが、伊倉では本堂山墓地にある「補陀落(ふだらく)渡海碑(とかいひ)」です。

補陀落渡海碑とは西方海上の彼方に補陀落山という観音浄土があると信じられ、そこへ船出して往生しようとする熱烈な信仰です。生命をかけてのこととはいえ、その旅立ちは確実に死を迎える運命にありました。渡海碑には下野国(栃木県)の夢賢上人の名を見ることができます。はるばる九州肥後に下って伊倉に入り、海の向こうの観音浄土の世界をめざしたのでした。『永遠の補陀落山に 想いをえがく』

伊倉は、『えにしより 人材育成伊倉の塾』と、人づくりに力を注いできたことも誇りです。人物も多彩で、思いつくままに挙げても木下初太郎、助之親子、国友古照軒、竹添進一郎、竹崎茶堂(さどう)らの名前が浮かびます。「夕鶴」で著名な木下順二もそうです。

いずれにしても、伊倉の里の歴史散歩は楽しく、思いがけない出逢いの喜びにあふれることと思います。ぜひお出かけ下さい。