ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.121 「 肥後象眼あれこれ 」

講師/肥後象がん振興会会長 白木 光虎 氏


◇◆ 肥後象眼の沿革 ◆◇

加藤家に林又八という鉄砲鍛冶が仕えていたが、加藤家改易により浪々の身となった。1632(寛永9)年、細川忠利公が肥後藩主として入国すると召し抱えられ、銃身に九曜紋や桜紋を象眼した鉄砲制作に当たった。後に鐔師に転向し、肥後鐔の名品を制作,肥後象眼の始祖と呼ばれている。

又、前藩主三斎公(忠興)は、八代に隠居、金工の平田彦三、その甥志水仁兵衛、彦三の弟子西垣勘四郎などを伴い入城した。各家はお抱え工として技を競い、後世に残る肥後鐔の名品を制作した。

三斎公没後、平田家と西垣家は熊本へ移転したが志水家は残り、八代派と呼ばれた。一方、林家は熊本の春日に居住していたので春日派と呼ばれた。

幕末には林又七以来の名人と称された神吉楽壽が出て、肥後金工の名声を不動のものとした。

明治維新後は廃刀令により刀装金具の需要がなくなり、各家とも大半が転廃業の已むなきに至ったが、一部が装身具に活路を求め、技法を現代に伝えた。

肥後象眼白木家は、1900(明治33)年、初代壽七が17歳で象眼師となり興したもので、二代目重治を経て、三代目光虎、四代目良明へと続いている。

(白木光虎著『肥後象眼白木家四代の軌跡』より)


肥後象眼は、約400年の伝統に裏打ちされた熊本県を代表する金工品です。
深い黒地に浮かぶ金銀の繊細な意匠、使うほどに増す美しさ。まさに「重厚にして雅味」名世界を創り出します。この肥後象眼が小代焼、天草陶磁器と共に国の伝統的工芸品に指定されました。
そこで、肥後象がん振興会会長の白木光虎氏に「肥後象眼あれこれ」と題して語っていただきました。


〔 肥後象眼(ひごぞうがん) 〕


十人十色の世界


伝統工芸というと「伝統の技法で、昔と同じ材料を用い、昔と全く同じものを制作する工芸」と思われる方もいるのではないでしょうか。でもそれは伝承工芸のことであって、伝統工芸とは「伝統の技法で、伝統の材料を用い、伝統の特色を生かし、その時代のニーズに応えるものを創作する工芸」です。

今年3月、肥後象眼は小代焼、天草陶磁器とともに国の指定を受けました。現在10事業者32人が従事していますが、これをひとくくりで見ないでいただきたい、というのがまずはなによりのお願いです。肥後象眼と一口に言っても十人十色、それぞれの工夫やアイデアから生み出される独自な世界があります。それが「伝統の特色を生かしながらも時代のニーズに応える」ということでもあるのです。

私は肥後象眼の命(いのち)は感性とデッサン力にあると思っています。つまり"絵心"が求められます。肥後象眼の始祖といわれる林又七の作品を見ますと、その斬新なアイデアに驚かされます。林又七は江戸初期の人ですが、今に通じる素晴らしさは決して色あせることはありません。そして、それ以降の肥後象眼400年の長い歴史の重さを痛感する次第です。


重厚にして雅味


肥後象眼の技法は大別して布目象眼と彫込象眼があり、今はほとんどが布目象眼です。

〈鉄地にタガネで四方向から布目を入れ、鹿の角で金銀を打ち込みます。さらに木槌でならし、炭で磨き上げます。次に錆出しをしタンニンで止め、錆を美しい黒色にした後油を焼き込み、拭き上げて完成〉

言葉で簡単に説明すると、こういうことになりますが、この工程を一切手作りでやるとなると、やはり根気のいる地味な仕事です。それも座業ですからうんざりといった気分にもなるというものです。しかし平凡な感想ですが、出来上がったときの達成感、何物にも代え難い喜びが心の支えです。

手入れ方法をよく聞かれます。それは指先でこすってやるのが一番です。ただし手をよく洗い、乾いた指でして下さい。用即美。肥後象眼は触れること、使うことによって美しさを増してきます。400年の伝統が守り伝えてきた「重厚にして雅味」あふれる良さをお楽しみいただきたいと思います。

なお、今回の国指定のお披露目を兼ねて熊本市川尻のくまもと工芸会館で開催される「くまもと工芸品フェスタ2003」に私達肥後象がん振興会も参加します。期間中は象眼工程のポイントというべき「布目切り」体験コーナーも開きますのでお気軽にお越し下さい。


【くまもと工芸品フェスタ2003】

■ と き/10月22~25日

■ ところ/くまもと工芸会館(熊本市川尻) TEL:096-358-5711