加藤清正公といえば、全国的には勇猛な武将として知られています。しかし、わが熊本では熊本城や大規模な治水工事など、熊本の国造りの基礎を築いた恩人です。今回の寺子屋塾は、加藤神社の湯田榮弘宮司に「セイショコさん」と今なお慕われ続ける清正公の魅力を語っていただきました。その要旨をご紹介します。
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〔加藤清正公銅像(熊本城前)〕 |
「難治の国」にチャレンジ
加藤清正公は熊本では「セイショコさん」と呼ばれて慕われています。その魅力はどんなところにあるのでしょう。そのことを考えるとき、セイショコさんは今に生きる私たちに多くのことを語りかけているように思えます。
清正公の肥後入国は数え年27歳の時でした。豊臣秀吉からは肥後と讃岐のいずれかを選ぶように言われました。周囲の意見は肥後には反対でした。なにしろ難治の国です。事実、前任者の佐々成政は肥後国衆一揆の責任をとらされて切腹しています。しかし清正公はあえて肥後を選びました。困難から逃げない。チャレンジする。清正公の特質の一つを見る気がします。
とはいうものの、やはり難治の国でした。肥後では有力な戦国大名が出現しなかったため、豊後の大友氏、肥前の龍造寺氏、薩摩の島津氏の勢力争いに巻き込まれ、いわゆる草刈場としての時代が長く続きました。当然、国土は荒れ、人心も不安定でした。清正公の国造りはそうした中で始まったのです。
納得づくの熊本城工事
熊本城は天下の名城です。そして、清正公の偉大さの証(あかし)です。以前のことになりますが、松下幸之助氏がおしのびで熊本城に来られたことがあります。私もそばにいました。幸之助氏は石垣の見事さを褒め、その理由として「この石垣は領民が力を合わせて造ったもの。だからすばらしい」といった意味のことを話されました。清正公は"土木・治水の神様"といわれますが、こちらは"経営の神様"。さすが、見る目が違うなと、感心したことを覚えています。
築城工事は大変な大仕事でした。領民にもかなりの無理を強いたと思いがちですが、実際は違います。賃金として男には米6合、女には米5合をきちんと払い、農繁期や雨の日は休みでした。仕事は午後5時には終わり、そのあと酒と飯、さらに領民にはもう一品が振る舞われました。家臣は酒と飯だけでしたから優遇したと言えましょう。
工事では家臣たちはもとより、清正公も自ら率先して働きました。現場主義、実践主義に徹した清正公の姿に領民が感動しないはずがありません。誰もが納得づくで働いたのです。熊本城は清正公・家臣・領民の合作であったと思っています。
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〔熊本城〕 |
〔武者返し〕 |
熊本城は別名「銀杏城」と呼ばれる |
反り返った石垣は敵が容易に 登れないようにするため |
「後の世(のちのよ)のため」
権力だけで人を動かすには限界があります。人間としての魅力がなければ人は動きません。清正公は人のこころをつかみ、その気にさせる"天才"だったと思います。でなければ、熊本城築城をはじめ城下町づくりや治水・干拓・工事、産業振興、道路の整備などなどあれほどの業績を残せなかったでしょう。それも清正公の肥後統治は23年に過ぎず、しかもその間2度にわたる朝鮮出兵を挟んでいるのですから驚嘆すべき働きぶりです。
しかし、清正公はただがむしゃらに働いたわけではありません。独特の武者返し石垣や鼻ぐり井出、轡塘(くつわども)などの創意工夫にみられるテクノクラートとして、また貿易に積極的に取り組んだエコノミストとしての側面も持ち合わせていました。そうした多彩な能力がセイショコさんの魅力をさらに高めているのです。
清正公の口ぐせは「後の世のため」でした。それから400年を経た「後の世」である今を私たちは生きているわけですが、多くの場面でその"遺産"を目にすることが出来ます。熊本市の町並みは端的な例です。街のカタチを大きく左右する白川、坪井川、井芹川の流れも清正公によって堀替えられたものでした。私たちは「セイショコさんのいる風景」の中を歩いているのです。
享年数え年50歳。清正公はくしくも誕生日と同じ日に亡くなりました。ご本人自身は財産といえるほどのものは残していません。しかしその代わりに「徳」を遺した、と私は思います。
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