ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.117 「 桧垣と蓮台寺 」

講師/蓮台寺住職  浅野 昭弘 氏

蓮台寺は町名にもなっているほど古くから地域に根づいた由緒深いお寺です。「桧垣寺」ともよばれるように、平安の女流歌人で才媛をうたわれた桧垣ゆかりの寺としても知られます。そこで、今回は浅野昭弘住職を講師にお迎えし、「桧垣(ひがき)と蓮台寺(れんだいじ)」のテーマでお話ししていただきました。


「観音を礼し、仏前にむかひ」


お寺には山号、院号、寺号があり、私が第18代住職を努める蓮台寺は正式には「九品山浄土院蓮台寺」といいます。でも、一般的には「桧垣寺」の名で知られており、ことに最近はそう呼ばれることが多くなりました。といいますのも、桧垣(平安期の女流歌人で、桧垣を巡らした家に住んでいたことからこの名が付いたという)は、いま話題の宮本武蔵と"共通項"があるからです。

武蔵が金峰山麓の霊巖洞に籠もり、『五輪書』を書いたことはよく知られています。冒頭に「寛永20年10月上旬の比九州肥後地岩戸山に上り、天を拝し、観音を礼し、仏前にむかひ」と記されていますが、武蔵より以前、この岩戸観音を篤く信仰していたのが桧垣だったのです。蓮台寺境内には桧垣が岩戸観音に日参する際に水を汲んだと伝えられる井戸跡が残っています。二人は時代こそ違え、霊巖洞への山路を通っていったことになります。

桧垣は実在の人物ですが、その生い立ちなどについては詳しいことは不明です。通説では、太宰府や京の都で名花ともてはやされました。しかし藤原純友の乱に遭って家財を失い、肥後白川のほとりにたどりつき、ささやかな草庵を結び、観音菩薩像を安置し、信仰の日々を過ごしたと伝えられます。すぐれた歌人であったのは間違いなく、『後撰集』に採られた一首は特に有名です。

     年ふればわが黒髪も白川の

          みずはくむまで老いにけるかな


三齋公も知っていた桧垣の塔


桧垣ゆかりの蓮台寺は、今から約360年前の正保年間、京都の禅林寺から顕空上人が来往して現在のような姿を整えていきます。当時の藩主、細川綱利公から寺領50石の寄進を受け、肥後三十三カ所の第16番札所にもなって賑わいました。

境内の千体地蔵は寛政年間の明空上人によるものです。この時期は白川の氾濫など天変地異が相次ぎました。明空上人は犠牲者の冥福を祈り、田畑の復興を願って多大な苦労の末に千体の地蔵尊像をつくりあげたのです。

蓮台寺では昭和55年から3年かけて寺域整備および改築を行いましたが、このとき放牛地蔵(28体目)が発見されたことも喜びでした。今は千体地蔵の中央に慈愛に満ちた眼差しで鎮座しています。

桧垣の塔についても言い伝えが残されています。この塔は加藤氏の時代、熊本城内に移されました。おそらく造形の見事さから庭石として用いられていたのでしょう。それが細川氏の時代になり、塔のことを覚えていた三斎(忠興)公の厳命によって、元の蓮台寺へ戻されました。文化的素養の高かった三齋公は和歌や謡曲「桧垣」などを通じて当然桧垣のことを知っており、敬愛の念も深かったことと思われます。それは宮本武蔵についても言えます。


桧垣像の味わい深い上品さ


桧垣との関連では立て膝姿の桧垣像にふれないわけにはいきません。像の"原本"といえるものは霊巖洞にありました。周辺は無数の五百羅漢像が並び一大奇観を呈していますが、実はそれらの建立の際、岩肌の一角から小さな石函に入った女形の蔵が出てきました。桧垣自身が彫ったとされており、蓮台寺の桧垣の像はそれを模したものです。

とはいえ、私はその霊巖洞の桧垣像についてはこれまで写真でも見たことがありませんでした。ところが思いがけず見ることができたのはマインド社長の末吉駿一氏が書かれた『霊巖洞の秘密』誌上においてです。私はなんだか長年思い続けた女性にやっと会えたような気持ちでした。子どもの頃は「どこかのおばさん」程度にしか思っていませんでしたが、今見れば見るほど味わい深い上品さがしみじみと伝わってきます。みなさんも当寺へお越しになり、桧垣と"対面"してみてはいかがでしょう。

ところで独特の立て膝ポーズについてはいろいろ説によりますが、今回の寺子屋塾でお目にかかった肥後今春流の中村勝氏によれば、あれは能の構えの一つだということです。卓見だと思いました。