ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.116 「 火の君の里・竜北 」

講師/竜北町教育委員会  今田 治代 氏

熊本は「火の国」とよばれています。古墳時代の肥後国最大の豪族・火の君にちなむといわれています。その火の君一族の本拠地とされるのが竜北町の氷川流域です。丘陵に野津古墳群大野窟(おおののいわや)古墳が残り、古代のロマンを誘います。竜北町教育委員会の今田治代さんに「火の君の里・竜北」と題してお話しいただきました。


前方後円墳が4基並ぶ


「火の国」の名の由来については不知火説や阿蘇山説のほか白髪山の怪火説というのがあります。これは大和朝廷に従わぬ豪族を平定した折、夜空から火が降ってきたというものです(『肥前風土記逸文』『肥後風土記』)。そして、もっとも有力視されているのが氷川流域に勢力をふるった「火の君」に由来する説です。

一族の墓とされるのが竜北町にある野津古墳群です。物見櫓(ものみやぐら)古墳、姫ノ城(ひめのじょう)古墳、中ノ城(なかのじょう)古墳、端ノ城(はしのじょう)古墳と4基を数えます。いずれも県内屈指の前方後円墳で、この地が「火の君の里」であったことをうかがわせるに十分な規模です。

ところで、火の君の里は竜北町だけではありません。城南町や宮原町も名乗っています。どこが本当かというのではなく、3世紀以降、一族の本拠地が南へ次第に移動して行ったという説があるからです。


磐井(いわい)の乱で勢力拡大


氷川流域に移ってきた火の君一族は勢力をひろげ、5・6世紀ごろの熊本の政治の中心となりました。このため熊本を指して「火の国」と呼ぶようになったと推察されます。ただ、九州全体で見ると2番手でした。ナンバーワンは福岡の「筑紫の国」です。『日本書紀』に「筑紫の君の児、火中君の弟」とありますから、火の君は筑紫の君とは婚姻関係にあったか、あるいは配下にあったかと思われます。

それが逆転するのは527年に起こった磐井(いわい)の乱です。大和朝廷と筑紫野国造(くにのみやっこ)磐井氏との間で争われた一大内乱でした。火の君一族は朝廷側に立ち、戦いに勝利します。

この結果、一族は糸島半島、唐津、川内へと進出するようになり、有明海、八代海沿いの圏域を支配下に収めました。その後702年、736年の記録の中に「肥君」の言葉が見られますから、領域の拡大とともに「火の国」から「肥の国」へと変わり、「肥後」「肥前」にしても元来は一つのまとまりだったと思われます。


金のイヤリングも出土


野津古墳群は一番小さな物見櫓古墳でも長さ62メートル、最大の中ノ城古墳は102メートルあります。それら4基が前方後円墳独特のスタイルで丘陵上に競い合うように並んでいる姿は実に壮観で、火の君の強大さを雄弁に語りかけます。野津古墳群とは少し離れていますが、日本最大級といわれる横穴式石室の大野窟(おおののいわや)古墳も必見です。従来は円墳と見られていましたが、ここも前方後円墳の可能性があります。本年度(平成15年度)から調査することになり、私も多いに張り切っているところです。

出土品には円筒埴輪(はにわ)、形象埴輪、須恵器、馬具、武具、玉などがあり、特徴的なものとして石製表飾品(石人石馬)も複数出土しています。垂飾付(たれかざりつき)耳飾が出てきたときはさすがに興奮しました。それは金のイヤリングでした。古代の眠りから目覚めた輝き、美しさにすっかり魅せられてしまいました。

古墳の造営時期は古墳時代後期に当たります。したがって出土品の数々はおよそ1500年前のものです。それらとの出会いから学ぶことは、歴史は決して断絶したものではなく連続しているということです。そして「温故知新」、この言葉の持つ意味をあらためて考えないわけにはいきません。文化財保護はともすれば趣味の分野と思われがちですが、きわめて現実とかかわっている問題なのです。

熊本の古墳見学は多くが菊池川までで南の氷川まではなかなか足を運んでくれません。とても残念なことです。竜北町は3号線を下って八代のちょっと手前、熊本市からは1時間そこそこです。つい最近、竜北町物産館「ビストログリーン」もオープンしました。野津古墳群はそこから歩いて15分ほどです。お気軽にお越し下さい。