ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.114 「 熊本名産・からし蓮根 」

講師/森からし蓮根・専務  森 裕子 氏

くまもとの味としてからし蓮根は欠かせない。ツーンとくるからしの刺激と蓮根のサクサクした歯ごたえ。その味わいはどこか肥後人気質を思わせ、"もっこすの味"と評する人も多い。ルーツは細川忠利公に由来し、350年余の歴史を誇る。

今回は、そのからし蓮根の老舗で、考案者の森平五郎を先祖に持つ森からし蓮根・専務の森裕子さんに、おなじみのからし蓮根のあれこれについて語って頂きました。


三五〇年前の健康食


からし蓮根からし蓮根を製造しているのは全国でも熊本だけです。わたしはその熊本特産の伝統の味を家業としてつくらせて頂いていることに責任と、そしてなによりも喜びを感じております。

歴史は肥後細川家の初代藩主、細川忠利公にさかのぼります。忠利公と一緒に豊前からやってきたお坊さんに玄宅和尚という方がいました。

からし蓮根はこの玄宅和尚とかかわっています。お殿さまの忠利公が病弱であったためなんとか健康増進になる食べ物はないかと考え、和漢の書をひもとき、目を付けたのが栄養価が高く、造血剤としても薬効がある蓮根でした。さっそく藩の賄い方に命じて蓮根を使った料理をつくらせました。

賄い方は八十人ほどおり、今でいうコンクール形式でいろいろとつくられましたが、わが家の十七代前の先祖・平五郎の考案によるからし蓮根が選ばれました。ちなみに賄い方のいた台所は現在の市民会館あたりです。お殿さまが普段の生活を過ごされたのは周辺一帯の花畑屋敷でした。


明治維新で庶民の口にも


お殿さまの「目」ならぬ「口」に留まったことは賄い方にとって大変な名誉です。しかしお呼び出しがかかり、直接お会いすることになったときは平五郎はさぞや青ざめたに違いありません。

なにしろその時代、一平民がお殿さまに会うなんてことはとんでもない話です。それに蓮根は泥の中に生える植物です。それをおそれおおくも藩主の口に入れるとは何事か、といわれないでもありません。打ち首覚悟で参上しました。

ところが、忠利公は大層喜ばれ、ほうびとして脇差し一振り、小判十枚、さらに苗字帯刀まで許されました。からし蓮根はその切り口が細川家の九曜紋に似ていることでも熊本特産にふさわしいといえますが、わが家は鍋蓋紋(なべぶたもん)を頂きました。名前からも連想されるように料理に縁のあるふさわしい紋様で大変珍しいとのことです。

以来、からし蓮根はお殿さまの専用食として門外不出、一子相伝で代々受け継がれてきました。つまり、藩の保護のもとに守られてきたわけです。それが明治維新で一変しました。庶民の口にも入るようになったのは良かったことですが、わが家は生活の基盤を失ってしまいました。森からし蓮根が商売として製造・販売するようになったのは今から四代前のことです。


”秘伝”は手造りの心


森からし蓮根には製造方法などを記した由来書が残っています。それを見ても、作り方は当時とほとんど変わっていません。簡単に説明すると、「麦味噌の中に和がらし粉を混ぜて、これを蓮根の穴につめ麦粉、空豆粉、卵の黄味を混ぜ合わせた衣をつけ、菜種油で揚げる」です。からし粉を入れるのはのぼせ止め(昔の人は油ものを食べるとのぼせると言っていました)、空豆粉は時間が経つとどうしても固くなりますので、それを防ぎふんわりさを保つためです。

秘伝といったものがあるのでしょう?よく聞かれます。でも、特別なものはありません。みなさんの中には蓮根の穴にどうやってからし味噌を詰めるのだろう、よほどの熟練の業が必要と思っていらっしゃる方もいますが、あれは誰にでもできます。実際、年末の多忙期にはアルバイトにもさせています。

難しいのは蓮根の見分け方でしょうか。これは泥から見ないと本当のところは分かりません。わたしは十九歳から仕事に就きましたが、最近ようやく善し悪しの見当がつくようになりました。もっと難しいのが蓮根の茹で方です。何分間でといった時間の目安などはありません。これはもう長年の経験による「勘」というほかありません。わたしは残念ながらこの点についてはまだまだ修行中です。

わたしにとってからし蓮根づくりは天職です。全国各地に実演販売にも出かけます。からし蓮根の独特の風味が熊本を強く印象づけることにもなるのではと思っています。ふるさと自慢の味として、これからも手造りの心を大切にして守り続けていきます。