人吉出身の俳人に上村占魚がいます。平成14年はその7回忌にあたり、熊本近代文学館で「文学展」が開催されました。占魚は高浜虚子(たかはまきょし)や吉野英雄、亀井勝一郎らに高く評価されましたが、熊本ではあまり知られていないようです。そこで、占魚とは30年来の交遊もある熊本近代文学館の久野啓介館長に「俳人・上村占魚の世界」と題してお話頂きました。要旨をご紹介します。
球磨の風土が原風景
上村占魚をご存知でしょうか。後藤是山(ぜざん)、松本たかし、高濱虚子らを師と仰ぎ、写生の道を学んだ人吉出身の俳人です。「占魚」という俳号は球磨川の「鮎」の字を二つに分けたもので後藤是山の命名です。生涯を通じてふるさと人吉・球磨への想いは根強いものがあり、「占魚の世界」の原風景となりました。
本丸に立てば二の丸花の中(人吉城址にて)
活動の舞台が主に東京、群馬であったことから熊本ではあまり知られていないようですが、平成14年は七回忌に当たりました。熊本近代文学館では特別展を開催し、占魚の足跡を辿りました。そのなかで特に片岡思拙(しせつ)のコーナーを設けました。同郷の画家で、東京美術学校(現芸大)では梅原龍三郎と同期でした。二科展にも入賞した逸材でしたが、家業を継ぐために帰郷。占魚は彼が開いた人吉の於鹿倉(おかくら)細工研究所で薫陶(くんとう)を受け、芸術を志す契機となりました。占魚も思拙も熊本ではどちらかといえば埋もれた存在です。その二人を紹介できたことを、私はひそかに喜んでいます。
多彩な交遊範囲
私は占魚とは個人的にも親しくさせて頂きました。昭和39年、東京オリンピックの年のことです。熊日東京支社勤務の折、取材に行ったのが始まりでした。初対面にかかわらずいきなり酒となりました。
なによりも印象深かったことがあります。私たちは離れの一室で話したのですが、何か用事を思いついては母屋に向かって「静枝さあ~ん」と奥さんを呼ぶのです。それはまったく甘えん坊の声というほかありません。占魚は14歳のとき母を亡くしています。「母恋い」は占魚俳句のキーワードといわれますが、まさにそのことを実感しました。
一茶(いっさ)忌(き)や我も母なく育ちたる
愛すべき人物。いささか失礼ですが、私の占魚評です。そうした人柄ゆえか、交遊範囲の幅の広さには驚くほかありません。歌人吉野秀雄とのつきあいはとりわけ深いものがありました。その師会津八一をはじめ斎藤茂吉、小島政二郎、川端康成、大佛次郎、草野心平、宮柊二、中川一政らそうそうたる顔ぶれと交流がありました。ちなみに静枝夫人との媒酌人は亀井勝一郎でした。
二面性の魅力
占魚は誰からも慕われた半面、一筋縄でいかぬ男でした。松本たかしは次のように述べています。
「(占魚は)凡(およ)そ利害観念に乏しく、無計算なこと、余所目にもはらはらするくらいである(中略)人情には甚だ篤く、案外礼儀正しいところがある。細君や子供は可愛がるが、又一種の暴君であって、家庭にあっては威張り返っている(中略)彼は温順(おとな)しい人間であるが、極く稀に怒ることがあり、そういう時は取っ組み合いの喧嘩をして、相手を投げつけるくらいのことはやる。熊本の産であるからなかなか勇気がある」
こうした二面性は占魚の特質であり、同時に魅力の源泉でもあったと私は思います。
酒とともに旅は占魚文学に欠かせないものでした。旅に出たくてもお金がないときはトランクを下げて近所をひと回りしたこともあったそうです。
しかし、旅に出てどうなったのでしょう。私の好きな句があります。
さびしさに叫(おら)びひひるや春の潮
旅に出ても占魚の抱えるこころの闇は消えることはなかったのです。占魚は平成8年、76歳で亡くなりました。私はその4年前、病院に見舞ったことがあります。そのとき、一句できたと披露してくれました。句集には掲載されていません。
くにことば久々耳に秋を知る
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