ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.110 「 清正入国以前の肥後 (肥後国衆一揆) 」

講師/熊本県議会議員 熊本県文化財保護審議会委員  古閑 三博 氏

加藤清正が肥後を治める直前、誇り高き武士団による肥後を守る壮絶な戦いがありました。肥後国衆一揆です。その舞台となった三加和町の田中城跡が国史跡に指定され、戦いをリアルに再現した映画「おんな国衆一揆」も制作されました。そこで映画制作にもタッチされた県議会議員で文化財保護審議会委員の古閑三博氏を講師に、映画上映もまじえながら「清正入国以前の肥後」(肥後国衆一揆)と題してお話していただきました。


隈部館跡


肥後の歴史は加藤清正の入国後から語られることが多いようです。私はそのことをかねがね残念に思っていました。清正以前の肥後はどうだったか。忘れてならないのが肥後国衆一揆です。

九州統一を完了した豊臣秀吉は肥後の領主に佐々成政を任命します。当時、肥後には五十二人衆と言われる国衆(在地領主)がいて各地に割拠していました。成政は彼らに対し検地を強行します。それは秀吉が約束した「所領安堵(しょりょうあんど)」「三年間検地不施工」に反したものでした。

いやそれ以上に、五十二人衆にしてみれば自分たちが築き上げてきた自主権をおびやかすものでした。国衆たちの大半が呼応して反旗をひるがえします。これが肥後国衆一揆です。

私の住む菊鹿町に隈部館とよばれる中世山城跡があります。そこには立派な庭園跡も残っており当時のレベルの高さがしのばれます。一揆の口火を切ったのがここの隈部親永(くまべちかなが)でした。親永は山鹿城村城に籠もって成政軍に激しく戦います。

そのとき秀吉は京都北野で大茶会を催していましたが、国衆一揆の報に接するや急きょ茶会を取りやめます。秀吉にとっていかにショックであり大事件であったかがわかります。秀吉が鎮圧に差し向けた豊臣軍は圧倒的な軍勢で一揆勢を降していきます。隈部親永も立花氏にお預けの身なり、ついには自刃させられました。


田中城跡


最後の砦になったのが三加和町の田中城です。城主・和仁親実(わにちかざね)らはわずか九百人の兵力をもって豊臣勢一万人を迎え撃ち、二ヶ月にわたる攻防を展開しました。

このときの布陣の様子は日本最古の仕寄図である「辺春・和仁仕寄図(へばる・わにしよりず)」からありありとうかがうことができます。名だたる九州・四国の大名らがびっしりと田中城を取り囲んでいます。今春、田中城跡は貴重な史跡として国の史跡に指定されました。

私はこの田中城を舞台にした「おんな国衆一揆」の映画化のお手伝いをさせて頂きました。潮谷知事にも地域おこしの一環として快く特別出演してもらいました。

肥後国衆一揆は熊本だけの歴史的事実ではありません。秀吉はこのあと太閤地検や刀狩りなど兵農分離を強力に進めていきます。国衆たちの抵抗は中世の時代が終わりを告げ、近世への扉が押し開かれていく転換点に位置づけられるのです。

それにしても国衆たちは天下の豊臣秀吉を相手に勝算があったのでしょうか。私はそこに肥後人のもっこすぶりがキラリと光るのを見ないわけにはいきません。


 お ん な 国 衆 一 揆

< あらすじ >

豊臣秀吉は、九州を統一。肥後の領主に佐々成政を任命した。三加和の田中城と山鹿の城村城は、豊臣勢との壮絶な戦いを繰り広げる戦場と化した。城は包囲され、数ヶ月にわたる籠城作戦に必死の抵抗を見せる。戦いに挑んだのは和仁親実(わに・ちかざね)や辺春親行(へばる・ちかゆき)などの肥後の国衆であった。武将たちの生きざまと死にざまは、辺春親行の妻・頼(より)の目に克明に映った。加藤清正の肥後入国以前の世界を描く。監督・三池崇史(玉名市出身)。出演は、和仁親実に原田芳雄、辺春親行に北村一輝、その妻にはた三恵、豊臣秀吉に竹中直人。



※ 「おんな国衆一揆」についてのお問い合わせは、


三加和町教育委員会(社会教育課)TEL:0968-34-3111まで。