ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.107 「 鞠智城(きくちじょう)跡と温故創生館(おんこそうせいかん) 」

講師/歴史公園・鞠智城温故創生館分館長  大田 幸博 氏

菊鹿町の台地にひろがる古代山城の鞠智城跡。県によって平成6年度から歴史公園として整備が進められ、この4月には史跡の紹介や出土品などを展示するガイダンス施設「温故創生館」がオープンしました。そこで今回は昭和62年度から平成6年度まで発掘調査に当られた大田幸博・温故創生館分館長に、鞠智城から見えてくる古代史の"ドラマ"を語って頂きました。


東アジア情勢を色濃く反映


鞠智城跡鞠智城跡は東京ドーム12個分の広さを持つ広大な古代山城です。普通、お城というと熊本城などの近世城が思い浮かびます。が、これは近世大名らが築いたものです。また中世城と呼ばれるのは土地の有力者らによるもので、いずれにしてもローカルなものといえます。これに対し鞠智城は大和朝廷が直接関与しています。つまり国家プロジェクトなのです。鞠智城についてはまずこの点を知っておく必要があります。

では、鞠智城は何のために築かれたのでしょう。それを理解するには当時(7世紀後半)の東アジア情勢に目を向けなければなりません。

大化の改新(645年)によって律令制が確立、日本の国家の体制が整います。この時代、朝鮮半島では百済(くだら)と新羅(しらぎ)が争っており、日本は百済と友好関係にありました。一方の新羅は唐に援助を求め、日本・百済連合対唐・新羅連合の図式が鮮明になっていきます。日本にとって百済は文化の集成地であり、江戸時代の長崎の出島、明治時代の横浜のような存在でした。お互いを分け隔てる国境意識といったものはなかったと思われます。

そうした中、百済がついに滅亡します(660年)。日本は百済再興へ大軍を派遣することになるのですが、その途中で女帝の斉明天皇が北九州の朝倉宮で亡くなります。この天皇は最初は皇極天皇として二度即位された方ですが、百済への同情心は熱いものがあり、それが大国唐を敵に回すという決断に踏み切らせたのかもしれませんし、また唐が実際に参戦してくれるとは思わなかったのかもしれません。ともあれ後を継いだのは中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)、後の天智天皇でした。2万7000人の兵を送り、唐・新羅軍との決戦に挑みます。


軍事と併せて行政機能も


決戦の場となったのは歴史の教科書でおなじみの白村江(はくすきえ・錦江の河口)です。663年のことでした。日本の水軍は万全の構えで待ち受けていた唐・新羅軍の挟み打ちに遭って大敗を喫します。

大和朝廷は存亡の危機に立たされました。唐・新羅の侵攻に備えて九州から瀬戸内海沿いに城塞を次々と築いていきます。鞠智城もその1つに位置づけられます。この国防の拠点は国書に記されているだけで11城、他を加えると25城を数えます。都も難波宮から大津宮へ緊急遷都されました。後年、鎌倉時代の元寇(げんこう)で国難に遭遇しますが、このときは博多を中心とした"水際作戦"でした。しかし天智天皇の大和朝廷がとった体制はまさに"本土決戦"を想定したものです。このことは今論議されている有事の備えを日本が初めて経験した出来事であったといえます。

ただ、本土決戦に備えた前線基地にしては鞠智城の位置が問題です。大宰府から南に80kmも離れているからです。でもそれは兵站(へいたん)基地、大宰府の後方支援基地、また軍事だけでなく行政機能も備えた役割を果たしていたからと解釈できます。さらに大宰府と鞠智城の中間点に朝倉宮があるのも注目されます。


シンボル的存在の八角形鼓楼


温故創生館鞠智城跡の調査は昭和42年からスタートし、今年度で24次を数えます。これまでに古代山城では国内初の発見が相次いでいます。72棟の建物跡が確認されたほか貯水池跡や貯木場跡、ことに渡来人「秦(はた)」氏の名が墨書された木管の出土は古代史解明の貴重な手がかりとなりました。

柱の礎石などを基に4棟の建物も復元されました。食糧を保管した「米倉」、防人(さきもり)たちが生活した「兵舎」、太鼓を打って時間を知らせた「鼓楼(ころう)」、武器庫と見られる「板倉」です。

なかでもユニークな八角形の3層、16mの鼓楼はシンボル的存在です。この八角形スタイルは国内ではほとんど見られませんが、韓国京畿道の二聖(イーソン)山城跡にほぼそっくりな形で建物跡が見つかりました。私も現地で見ましたが、その類似性に驚くとともに当時の百済との強い結びつきを実感したことでした。鞠智城の築城には百済の技術者の存在がありました。

鞠智城跡には7世紀後半の古代日本の"情報"がいっぱい埋まっています。温故創生館はその古代の世界へお誘いするガイダンス施設。出土品の展示や復元建物の模型、映像による紹介などで興味深く学ぶことができます。2階の休憩室に上がると史跡全体が一望のもとに広がっています。1300年前の古代山城が語りかける"ドラマ"が浮かんでくることでしょう。



鞠智城略年表

西 暦 年 号 記 録 と 内 容 六 国 史
645 大化元年 大化の改新。律令制が確立した。 日本書紀
663 天智2年 朝鮮半島での、白江村の戦いで、唐と新羅の連合軍に大和朝廷軍と百済軍が敗れた。結果として連合軍の日本への侵攻が予想される非常事態となった。国内で危機感が高まり、朝廷は、対応を迫られた。 日本書紀
664 天智3年 筑紫などに防人と烽(とぶひ)を配置し、水城を築いた 日本書紀
665 天智4年 筑紫に大野城、基肄(きい)城、長門に長門城を築いた。 日本書紀
667 天智6年 大和に高安城、讃岐に屋島城、対馬に金田城を築いた。 日本書紀
698 文武2年 大宰府をして、大野、基肄、鞠智の三城を繕治する。 続日本記
699 文武3年 三野城、稲積城を修繕する。 続日本記
858 天安2年 菊池城院の兵庫の鼓が自ら鳴る。(2月)
肥後国菊池城院の兵庫の鼓が自ら鳴る。
(6月)菊池城の不動倉十一棟が、火災にあう。(6月)
文徳実録
875 貞観17年 カラスの群れが菊池郡倉舎の葺草をかみ抜く。 三代実録
879 元慶3年 肥後国菊池城院の兵庫の鼓が自ら鳴る。 三代実録

・・・以後、鞠智城は歴史の舞台から姿を消す。