ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.106 「 熊本城と熊本城復元 」

講師/熊本城復元専門員  今村 克彦 氏

熊本市のシンボルはなんといっても熊本城です。豪壮にして優美な構築は天下の名城にふさわしい風格を備えています。その熊本城が来る平成19年(2007)には築城400年を迎えます。熊本市では現在、記念すべき節目に向けた復元整備事業が進行中です。加藤清正当時の雄姿がよみがえるとあって市民の期待は熱いものがあり「一口城主制度」募金への関心も高まってきました。そこで当初から復元プロジェクトにかかわってきた熊本城総合事務所初代所長で熊本城復元専門員の今村克彦氏に熊本城復元について語っていただきました。


四〇〇年前の偉容再び


熊本城熊本城は難攻不落の名城といわれます。その威力は明治十年の西南戦争で"立証"されました。薩軍の猛攻に耐えに耐えぬくこと五十余日、ついに籠城戦に勝利しました。西郷隆盛は「加藤清正と戦(いくさ)して負けたようなものだ」と呟いたそうです。

私は各地の城を見てきましたが、熊本城ほど防備の固い城はほかにないというのが実感です。清正にはおそらく豊臣秀頼のことが頭の中にあったと思われます。豊臣恩顧の大名としていざとなれば秀頼を迎えて徳川方との一戦も辞さず。そうした覚悟をみることができます。

実は、これらのことは今回の熊本城復元とかかわっていることでもあるのです。まず西南戦争は熊本城の進化を高らしめたとはいえ城内の建造物を焼失させました。それらの復元・保存を行うことで歴史的遺産としての価値をさらに高めます。また復元の目玉となるのが天守閣南側の本丸御殿大広間です。ここに秀頼を迎えるための「昭君(しょうくん)の間」(「将軍の間」のもじりと伝えられる)がありました。築城四〇〇年の平成十九年度をめどにこの城内有数の巨大建造物がお目見えします。


※復元予想図 → http://www.city.kumamoto.kumamoto.jp/fukugen/yosou.html


西出丸からスタート


復元工事は天守閣と二の丸広場にはさまれた西出丸からスタートします。本丸の入り口に当る要衝で、かつて清正が「ここだけで一〇〇日は守れる」と豪語したという一帯です。南大手門や戌亥櫓(いぬいやぐら)、元太鼓櫓(もとたいこやぐら)、未申櫓(ひつじさるやぐら)と各櫓を結ぶ長塀がよみがえり、南大手門は今秋には完成の予定です。

飯田丸五階櫓も往時の姿を取り戻します。この名は清正の重臣・飯田覚(角)兵衛からとられたものです。石垣つきの名人で、三宅角左衛門とともに「両かく」と並び称されました。備前堀を真下に高石垣上にそびえる飯田丸五階櫓を見上げるとき、敵を一歩も寄付けないぞといった迫力を感じることでしょう。

石垣は熊本城の大きな特徴です。下はゆるやかですが、途中から急勾配になり、上部が突き出て敵をはね返す独特の工法は「清正公石垣」とか「武者返し」とか呼ばれ、美しい曲線は芸術的とさえいえるほどです。今ではこの石積み技術を伝えるのは県内で一人しかいません。また大工として国の認めた木工主任技能の資格を持つ人は九州では六人しかいませんが、幸いなことにその内四人が熊本城の工事に携わっています。堅牢な石垣といっても放っておいていいわけではありません。点検し補修していってこそ守られます。文化財の価値は維持していくための技術の継承ということが欠かせず、今回の復元工事もその点に大きなウエイトを置いています。


後世に「技術」も残す


熊本城の復元が可能なのは江戸時代の古絵図や明治時代に撮影された写真が豊富に残されているからです。これらを基に当時の工法やデザインが浮かび上がります。これをさらにパソコンで解析してより忠実な設計図を仕上げます。

技術の継承という点では当時の工具を"再現"しました。宇土櫓など現存する建物の造りや柱などに残された削り跡などからどんなものが使われていたかを割り出し、四〇〇年前の工具を復元し、与岐(よき)や釿(ちょうな)で加工してもらいました。特に釿はハマグリ刃の釿(ちょうな)を作り、天正から慶長の釿(ちょうな)がけをやってもらいました。また材料の木材や瓦、壁材なども同様に基準を合わせました。私は木材一本一本にもその"履歴書"を要求しました。良質でありさえすればどこの木材でもいいというわけにはいかないのです。

そこまでこだわらなくてもと言われるかもしれません。でも、「本物に出来るかぎり近づけること」が復元の趣旨であり、復元されたあとも「古来の建築技術が残ること」が目的なのです。それをいま熊本でしておかないと永久に失われる。そんな使命感をもって私たち現場の人間は取り組んでいます。

それにしても改めて痛感するのは加藤清正という人物の偉大さです。一体、熊本城をつくるにあたってどれほどの労力や費用が必要だったことでしょう。完成までに百二十万人余が従事したという試算がありますが、よほど人の心をつかむのがうまかったというほかありません。また費用にしてもどこからひねりだしてきたのでしょう。貿易で莫大な利潤をあげたといわれますが、猛将のイメージとは裏腹の経済人としての清正のもう一つの側面が想像されます。

いずれにしても熊本城は誇るべき財産です。後世に末永く引き継いでいく責務があり、今回の本格復元整備はそのなかに大きく位置づけられることと思います。