宮本武蔵と熊本の関係についてはよく知られています。それが八代となると、「?」という方も多いことでしょう。しかし、八代のお殿様松井家を通じた武蔵とのかかわりは非常に深いものがあり、そもそもの武蔵の熊本入りからして重要な役割を果たしています。そこで、八代市立博物館未来の森ミュージアムの福原透学芸係長に「宮本武蔵と八代」と題してお話して頂きました。
宮本武蔵書状
宮本武蔵書状
一筆申上候、有馬陣ニ而ハ
預御使者殊御音信被思召出
処過当至極奉存候、拙者事
其以後江戸・上方ニ罷在候が、今
爰元へ参申儀御不審申可被成候、
少ハ用之儀候ヘハ罷越候、逗留申候ハヽ
伺候仕可申上候、恐惶謹言、
(寛永十七年ヵ)七月十八日 玄信(花押)
宮本武蔵
二天
長岡佐渡守様
人々御中
全国2通目の武蔵直筆書状
宮本武蔵の書状でこれぞ間違いなく直筆とされるのは現在のところ全国に二通しかありません。一通は吉川英治記念館、もう一通が八代市立博物館の所蔵です。
八代の書状は松井家の家老を務めた竹田家の古文書の中から八代市立博物館が幸運にも見つけ出したものです。最初はそれほど貴重なものとは思いませんでした。館長に「こんなものが出ましたが・・・。」と見せたところ、武蔵の書状ではないかということになり、鑑定の結果、直筆とされました。全国紙にも大々的に報道されたのにはびっくり仰天です。以来、八代市立博物館の一番の"宝物"となりました。この秋十月末には他の武蔵ゆかりの品々と共に展示しますので、みなさんもぜひご覧にお出かけ下さい。
さて書状の内容ですが、細川藩の筆頭家老で、後の八代城主長岡(松井)佐渡守興長に宛てたものです。まず有馬の陣で、興長が武蔵に使者を遣わしたことへのお礼が述べられています。有馬の陣とは天草・島原の乱のことです。これで武蔵が天草四郎らが立て籠もった原城の陣にいたことが分かります。
実はもう一通の直筆の吉川英治記念館蔵はこのときの様子を記したものです。それによると武蔵は原城攻めに加わったものの「拙者も石ニあたり、すねたちかね申故・・・」、つまり城内から投げられた石がすねに当り、立ち上がれないほどのケガをしたというのです。結果的には戦線離脱です。高校時代、吉川英治『宮本武蔵』に熱中したひとりとしては悲しくてつらい書状ですが、武蔵も人の子というほかありません。
大切に扱われた武蔵
八代の書状に戻ると、武蔵は天草・島原の乱後江戸・上方を回り、「少々の用事があって熊本にやってまいりました。しばらく滞在しますのでお目にかかりたいと存じます」とあります。日付は七月十八日ですが、年号はありません。ただし当時の習慣で年号を書かないのは普通でした。
これは寛永十七年のことだと推定されます。武蔵は五十七歳になっていました。そう特定することで、武蔵が熊本へやってきた目的、松井興長に面会したい理由が明らかになります。同年八月十三日の奉書(永青文庫)で「宮本武蔵ニ七人扶持・合力米拾八石遣候」と、武蔵を召し抱えたことが記録されているからです。したがって興長を訪ねたのは身のふり方、いわゆる"就職依頼"の相談だったと思われます。ただし、武蔵のプライドを傷つけないよう条件などはあきらさまに言ってはならないと念が押されています。このときの禄高は当座のことですぐに米三百石に引き上げられました。
武蔵の身分は家来ではありません。あくまで客分です。これは相談相手、話し相手といった立場、顧問といってもいいでしょう。武蔵は藩主忠利公はもとより藩士一同からとても大切に扱われました。それは興長の子、松井寄之が小倉の武蔵の養子、宮本伊織へ宛てたていねいな書状(松井文庫)からもよくうかがえます。いずれにせよ興長、寄之親子と武蔵の交情はまことに深いものがあり、武蔵と熊本の縁は八代の松井親子がつくったといって過言ではないと思います。
八代で生まれた武蔵のイメージ
八代と武蔵との縁は死後も続きます。現在、流布している宮本武蔵のイメージは『二天記』に負うところが大です。これがなかったら吉川英治『宮本武蔵』も生まれなかったのではないかとさえ思います。
『二天記』は八代松井家家臣の豊田正剛、正脩、景英三代の手で完成した伝記ですが、話の中心は武蔵のそばに仕えた弟子たちからの聞き書きです。どうして弟子たちが八代にいたかというと、武蔵は死の間際、彼らの面倒を松井親子に頼み、八代に引き取ってもらったからです。こうして武蔵の足跡を知る手がかりや遺訓、遺品の数々が八代に末永く残されることになったのです。
私はこのことを大いにPRしたいと考えています。すなわち「八代は宮本武蔵のイメージが生まれた地」であると。少なくとも、武蔵直筆の書状が八代市立博物館の"宝物"であると同様、武蔵との強いつながりは八代の"宝物"です。
だからというわけではありませんが、ここで武蔵へのあらぬ誤解を訂正しておきたいと思います。それは武蔵は生涯風呂に入らず、身なりも無頓着、まことにむさくるしい男であったという風説です。しかし、藩主忠利公の客分として話し相手をつとめた立場でそれができたかどうか、常識でもわかるはずです。また、忠利公が山鹿温泉に療養に行った際、武蔵を招いた記録も残っています。温泉にのんびりつかっている武蔵の姿こそ想像してみたいところです。
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