ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.100 「 五高とくまもと 」

講師/五高記念館友の会代表世話人 元熊本日日新聞編集局長  平山 謙二郎 氏

県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。


今月のテーマは、「五高とくまもと」です。


武夫原頭に草萌えて…。おなじみの寮歌で知られる五高。その青春群像は熊本の地に懐かしくもかけがえない足跡を残し、モニュメントの赤レンガ本館は「五高記念館」として一般公開されています。今回は熊本の教育・文化を語る上で欠かせない五高について、「五高記念館友の会」代表世話人の平山謙二郎氏にお話して頂きました。


「熊本は大藩にして良風漲(みなぎ)り


第五高等学校(創設時は第五高等中学校)は昭和二十五年、学生改革で栄光ある歴史の幕を閉じ、熊本大学に包括されました。私はその境目となった年に熊本大学に入学しました。したがって直接的な関わりはありませんが、同じキャンパスに学んだ一人としてひそかな親近感を抱いてきました。

五高が誕生したのは明治二十年(1887)です。東京の一高はじめ京都、仙台、金沢とすんなり決まったのに比べ九州地区は難産でした。水面下で長崎、福岡との激しい綱引きもありました。しかし、時の文部大臣森有礼が「熊本は大藩にして良風漲(みなぎ)り、地理的にも歴史的にもふさわしい」と断を下し、熊本の地に決定しました。

五高の赤レンガ」と親しまれる本館も二年後に建設されます。いま全国のナンバースクールの中で当時の場所に当時の姿で残っているのは五高のほかなく、この本館とともに表門、化学実験室は国指定重要文化財です。レンガは近くの泰勝寺参道下に窯を設けて石神山の赤土で焼き、基礎工事用のクリ石は白川河原から運ばれました。現在、本館は「五高記念館」となって一般に開放されています。外から眺めた人は多いでしょうが、中に入った人は少ないと思います。ウオッチングに出かけてみませんか。
(毎週土・日 午前10時~午後4時)


「あの無駄な三年間は実によかった」


「五高人脈」という言い方がありますが、取り巻く人材はまことに多彩です。初代校長・野村彦四郎は酒好きの硬骨漢で、酔眼朦朧(すいがんもうろう)としながら天下国家を論じました。三代校長が講道館柔道で有名な嘉納治五郎です。柔道はもちろん五高スポーツの振興に力を尽くしました。ことに江津湖のボートレースは熊本市民あげて熱狂し、熊本の欠かせぬ行事でした。

教授陣にはラフカディオ・ハーン(小泉八雲)、夏目漱石、厨川白村(くりやがわはくそん)とそうそうたる顔ぶれが並びますが、秋月胤久(かずひさ)も欠かせません。元会津藩士で白虎隊の生き残りです。五高精神のバックボーンをつくりあげたといわれます。

学生となると枚挙にいとまがありません。なかでも"二つの高い峰"、池田隼人と佐藤栄作の両首相は外せないでしょう。池田から佐藤への禅譲は意外な感じがしないでもありませんでした。性格も違うし政見も一致していたわけではなかったからです。その謎をとくカギはやはり五高。"友情物語"が今に語り継がれています。

文学者も多く輩出しました。たとえば上林暁。高地出身ですが、ペンネームの由来は下宿先の熊本市上林町から採ったものです。『夕鶴』などで知られる木下順二は「実にのんびりした、それだけに怠けようと思えばいくらでも怠けられる代り、自己充実に精を出そうと思えばいくらでも頑張れるという三年間であった」と五高時代を振り返っています。そして「あの無駄な三年間というものは実によかったなあ」と。


「稚気(ちき)愛すべし」


五高生は確かにエリートたちの集まりでした。その自由奔放さも限られた若者たちの特権でした。当然批判される面はあるでしょう。しかし一方で、熊本市民がときには顔をしかめながらも「稚気(ちき)愛すべし」と、彼らをあたたかく迎え入れたのもまぎれもない事実です。そこには剛毅朴訥(ごうきぼくとつ)、質実剛健、ある意味でもっこす的な要素が熊本の気風と合ったのかもしれません。

ひるがえって今の高校教育を考えるとき、五高の多感な青春は人格形成、自由な教育環境、あるいは全寮制など示唆に富んだ多くのことを問いかけているような気がします。郷愁といった次元で片づけるのでなく、正しく見直し、未来につなげていくことが大切ではないでしょうか。

以上、何人かをあげて五高の一端に触れてみましたが、もとよりそれはほんのごく一部にすぎません。またとかくバンカラでとらえられる五高生のイメージにしても一面にすぎません。たとえば吉丸一昌がいます。この人は「早春譜」をはじめ文部省唱歌を多く作曲した人です。繊細なやさしさもまた五高生の本文なのです。ただし「一升酒の一昌」とも呼ばれました。

最後に私は二人の名をあげておきたいと思います。北御門二郎と村本一生です。この二人は良心的徴兵拒否者です。トルストイ翻訳家で水上村在住の北御門二郎については知っている方も多いと思いますが、村本一生はほとんど無名です。先年ひっそりと亡くなりました。私は新聞記者時代に取材したことがあります。こちらはなんとか話を広げようと誘い水をかけるのですが、淡々と事実のみを語るだけでした。国家に反逆した人物とはとうてい思えない柔和な笑顔が今でも思い浮かびます。