ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.097 「 竹崎季長と海東郷 」

講師/郷土歴史家(小川町在住)  萩坂 道秋氏

鎌倉時代後期、わが国は未曾有の国難に遭遇しました。蒙古襲来(元寇)です。時の執権は、NHK大河ドラマでもおなじみの北条時宗。半世紀たらずでアジアからヨーロッパにかけて一大帝国を築き上げた世界最強のモンゴル軍を相手に立ち向かいました。そしてもう一人、果敢に戦いを挑んだ男がいました。肥後の御家人、竹崎季長です。教科書などで誰もが一度は目にしたことのある「蒙古襲来絵詞」の主人公として知られます。今回はその季長ゆかりの地、下益城郡小川町の郷土歴史家、萩坂道秋先生に「竹崎季長と海東郷」と題してお話しして頂きました。


無足の身


竹崎季長という人は大変魅力的な人物です。季長のことを考えていくとまことに面目躍如たる人物像が浮かび上がってきます。私はその理由の一つに彼が庶子であったこと、つまり嫡子でなかったことが挙げられると思います。鎌倉時代も下るにつれ、武士の暮らしは窮迫してきました。土地を持たない「無足の身」、それが季長の置かれていた立場でした。

でも、そこであきらめたりしないのが季長です。なんとかして所領を得たいという気持ちに変わりはありません。ですから蒙古襲来は千載一遇のチャンスでした。季長は勇躍飛び出していきます。といっても無足の身では手勢は五騎が精一杯、これでモンゴル軍に立ち向かおうというのです。

「弓箭のみちす丶むをもてしやうとす」。季長は当時世界最強のモンゴル軍に対して一歩もひるみませんでした。鎌倉武士が最も名誉とする一番駆けを敢行します。その勇猛果敢ぶりは「蒙古襲来絵詞」に迫真力ある筆致で描かれている通りです。

文永の役は日本軍の勝利に終わりました。ところが、待てど暮らせど恩賞の沙汰は届きません。しかし、ここでもあきらめないのが季長です。今度ははるばる鎌倉まで直訴に出掛けるのです。こうしたバイタリティーも季長の魅力です。


九州男児ここにあり


NHK松平アナ風にいえば「そのとき歴史が動いた」のです。たとえ一介の武士であっても命をかけて奉公すれば必ずや報われる、このニュースはたちまちのうちに広がり、鎌倉武士の志気を高めました。それは再度の蒙古襲来、弘安の役でも勝利につながる要素の一つになったと思われます。

ただし、幕府は困りました。勝ったといえ相手は遠く離れたフビライの元国です。土地を新たに獲得して、恩賞として配分することができません。武士の間に不満がつのり、それはやがて鎌倉幕府滅亡へと至る大きな要因となりました。

それはさておき、晴れて東海郷の地頭となった季長のその後はどうなったでしょう。元寇奮戦の陰にかくれてしまいがちですが、所領経営に発揮した手腕はもっと評価されてしかるべきと思います。季長の菩提寺である小川町の塔福寺に残された「置文」「寄進状」(いずれも国指定重要文化財)をみると、例えば「海東の領民には、無事に年が越せるように一人当たり二斗の米を年末に与えなさい」といったことが記されています。一番駆けの勇者でありながら、一方でやさしい季長像が浮かびます。他にも領民に対して事細かに約束ごとなどを記載しています。今でいう情報公開です。


ゆかりの小川町


季長は善政を行い、領内の実力を蓄えました。このことが「蒙古襲来絵詞」の制作を可能にすることにつながりました。要した費用は億単位の膨大なものであったと推察されるからです。とはいっても、領内からの収益だけではやはり無理でしょう。私は、その費用は交易による利潤で工面されたのではないかと考えます。絵詞からもうかがわれるように季長は海戦においても活躍をしています。海に強い男なのです。自らの水軍を率い、海外へ乗り出していったとしても不思議ではありません。


「蒙古襲来絵詞」はこの制作費の問題を始め、作者や制作の過程、その後の経緯などさまざまな謎を秘めています。それがまた、季長の魅力をいっそうかきたてずにはおきません。私は小川町に住む一人として、これからも竹崎季長という郷土の大山達を追い続けていきたいと思っています。ここには塔福寺や墓などゆかりの史跡があります。皆さんもぜひ足を運び、庶子であり、無足の身でありながら、決して上昇志向を捨てず、一所懸命に生きた男の生きざまにふれてみてはいかがでしょう。小川町は小さな町ですが、竹崎季長と蒙古襲来絵詞によって外に向かって情報発信ができます。私はそのことに喜びと誇りを感じています。


蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)

「竹崎季長絵詞」とも呼ばれ、元寇(文永・弘安の役)の折、肥後の御家人竹崎季長の活躍を描いた長大な絵巻物。

季長自身が体験をもとに絵師に描かせたとされるだけに戦闘場面は実にリアル。当時の風景や風俗、またモンゴルの戦法をうかがう上からも貴重な史料で世界史的な価値を持つ。

絵詞は前後2巻からなり、合わせると40メートル以上にもなる。そこに自らの奮闘ぶりやモンゴル軍との戦いの有様が如実に活写され、さらに恩賞として領地を拝領したことなど一連の経緯が彩色された鮮やかな絵と説明文で克明に記録されている。

作成の意図については自らの武功を子孫に伝えるとともに、恩賞に預かったこと、神の加護があったことなどへの感謝の気持ちを込めたものと考えられる。原本は天草・大矢野家から宮内庁へと伝わり現在は三の丸尚蔵館に所蔵されているが、写本を小川町塔福寺で見ることができる。