ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.095 「 日本を救った高木少将 」

講師/郷土史家  渋谷 敦 先生

高木惣吉は人吉に生まれ、苦学の末に海軍少将となった人物。第二次世界大戦で犠牲者が増加する一方の昭和19年、戦争続行の意志も強い中、海軍大臣の命を受け、重臣たちを説得するなど戦争終結のために力を尽くしました。先頃、その高木惣吉の生涯を描いた著書を出版された郷土史家・渋谷敦氏に高木少将の功績と人物像についてご講話いただきました。その要旨をご紹介します。


努力の人


人吉出身の高木少将という人をご存知でしょうか。今は軍人というと何か良くないイメージが抱かれがちですが、熊本が誇るべき人物の一人です。

高木惣吉は1893年に球磨郡西瀬村(現人吉市矢黒町)に生まれました。父は酒飲みでとても貧しい家でしたが、惣吉は学校の成績が良く、人吉高等小学校をトップの成績で卒業しました。当時高等小学校の2年から、成績の良い裕福な家の子は熊本や八代、宮崎の中学校に進みましたが、家が貧しかった惣吉は当時の肥薩線の鉄道工事に従事することになります。しかし勉学の道をあきらめられなかった惣吉は仕事の傍ら通信教育で勉強を続けました。

そして明治43年に上京。書生の口を見つけ、やはり働きながら東京物理学校の講義を聴講し、学費が不要という理由で「海軍兵学校」を受験しました。3200人中、100人しか合格しないという難関を好成績で突破します。まさにこの時こそが、高木惣吉が苦労し、努力をしてつかんだ立身へのスタートラインでした。


200余通の妻への手紙


海軍大学校をトップの成績で卒業した高木惣吉は、フランス駐在を命じられ、そこで2年を過ごします。

その前に鎌倉出身の女性(静江夫人)と結婚しますが、渡仏期間に高木惣吉は、静江さんへ200余通にも及ぶ手紙を書いています。それだけでも驚きですが、すべて「愛する静江へ」「わが心の静江へ」という書き出しで始まる手紙でありました。

戦前の日本、しかも厳格な世界に生きる軍人が、と思うと信じられない気がしますが、心やさしい高木惣吉の性格がよくあらわれているエピソードです。


「 竹槍では勝てない 」


帰国後、高木惣吉は軍令部に出仕、海軍大臣秘書官を経て海軍大学校の教官となります。昭和12年に林内閣成立、同16年に、いよいよ太平洋戦争が始まると、高木惣吉は海軍大臣の米内光政や、山本五十六、井上成美等そうそうたる海軍士官の部下として働きました。

当初は勢いの良かった日本軍も、次第に戦局は悪化の一歩をたどるようになります。そんな中、早く戦争を終わらせないと国力が持たないと高木惣吉は判断。昭和18年の11月、同郷の人吉出身で、当時毎日新聞の編集局長だった吉岡文六を訪ねます。

この時彼らがどういう話をしたか、私は生前の高木惣吉に一度尋ねたことがありましたが、「何を話したか忘れた」ということでした。しかし、翌19年2月23日の毎日新聞に出たのは『竹槍では勝てない、飛行機だ、海洋航空機だ』という記事でした。大和魂をもって国民の戦意を煽っていた東条内閣は激怒、毎日新聞は発禁となり、吉岡も退職に追い込まれました。


日本を救った恩人


高木惣吉はこの竹槍記事事件をはじめ、重臣を説得するなど終戦のために力を尽くします。昭和19年、東条総理を暗殺する計画が持ちあがりますが、その2日前に内閣は解散。翌20年にようやく終戦を迎えました。8月15日、玉音放送を並んで聞く列の中、高木惣吉の横の列で涙を流していたのは、最後の一兵になるまで戦うべきと戦争続行を主張した大西滝次郎中将でした。もちろん高木惣吉も涙していましたが、彼の涙は戦争終結の喜びのそれで全く対照的なものでした。

それからの高木は東久邇(ひがしくに)内閣の副書記官長となって戦後処理に奔走します。何百万人という海軍兵士を、無事に内地に引き上げさせ、また、100万に及ぶ連合軍の将兵を日本へ平和進駐をさせました。

もし、あのまま戦争が続いていたら、日本人はもっと多くの犠牲者を出していたでしょう。また、アメリカ、ロシア、中国に分割占領されて、いまも日本人同士が自由に各地を行き来することはできなかったかもしれません。

作家、阿川弘之氏は短編『海軍こぼれ話』の中で、「高木少将といったら皆さんおわかりか?わからないようならあんたたち、恩知らずだよ。若いから関係ないもんと思うなら、あんたたち馬鹿だよ。本土決戦派の主張に従えば、日本の存在は2000年、3000年後まで脅かされただろう。一億玉砕、徹底抗戦だったら日本人の何パーセントが生き残れたか。もしこれがフランスなら、公園のマロニエの木陰に救国の功臣高木惣吉少将の胸像かレリーフが立っているはずだ」と記しています。


晩年の高木惣吉


その後、高木惣吉は東久邇内閣の副書記官長となって執筆活動に入ります。著者の内容は戦争の覚え書きというべきもので、戦争の意義、戦争についてなどが高木惣吉の視線で記され、幾つかはベストセラーにもなりました。

仲のよかった静江夫人を6年看病をして看取り、その14年後の昭和54年、85歳で亡くなりました。

自らの命をかけて日本を救った高木少将。地元の人にもあまり知られていないのが残念ですが、もっと多くの人、特に若い世代の人にこの人物のことを知ってもらいたいと思っています。