ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.093 「 嘉納治五郎と熊本 」

講師/大矢野町郷土史家  川上 昭一郎先生

嘉納治五郎は講道館を創設した日本柔道界の第一人者です。熊本にもゆかりが深く、夫人は大矢野町出身。五高の第三校長をつとめ、熊本市坪井町に「講道館分場」を興し、現在の熊本の柔道の基礎をつくりました。マラソン会の父・金栗四三、日本柔道を世界に広めた松前重義氏などは嘉納治五郎の弟子にあたります。嘉納治五郎の生い立ちや、その仕事や精神などについて、川上昭一郎氏にご講話いただきました。その要旨をご紹介します。


柔術で体の弱さを克服


日本における「柔道」の創設者嘉納治五郎。意外と知られていませんが、熊本県に大変ゆかりの深い人物です。

嘉野治五郎は一八六〇年、摂津国(現在の神戸市)に生まれました。その前年には安政の大獄がおこり、続いて桜田門外の変が勃発。三〇〇年続いた武家政治が終焉を迎え維新政府が発足し新しい時代が始まるという激動の時代でありました。

嘉納治五郎が生まれた摂津御影は灘酒の中心的な生産地でした。実家は現在も菊正宗酒造の造り酒屋です。祖父の次作は酒蔵十二、廻船十二隻を持ち、各方面に名声を博した人物で、その長女定子の婿として後を託されたのが父である次郎作でした。父次郎作は大阪に出て幕府の廻船方御用を勤め、日本で初めて洋式の船で江戸と大坂・神戸間の定期航路を開くなど幕府の命により大いに活躍をしました。また、その関係で勝海舟とも昵懇の仲となりました。

父次郎作は三男二女に恵まれ、嘉納治五郎は三男の末っ子として生まれました。十一歳の時に父とともに上京し、漢字、書、語学などを学び、十八歳の時に開成学校(東京大学)に編入。学生時代、体の弱かった治五郎は先輩にいじめられることがしばしばで、非力な者が強いものに勝つという「柔術」に関心を持ちます。そして天神真楊(しんよう)流福田八之助に入門し、初めて柔術を学ぶ機会を得ました。その稽古は大変激しく、また治五郎自身が研究熱心だったため、体だけでなく精神的にも大きく成長をしました。


熊本と嘉納治五郎


嘉納治五郎は明治二十二年九月、欧州諸国を訪れ、翌々年の明治二十四年に帰国。その年に竹添進一郎の娘、須磨子と結婚をします。

須磨子の父、竹添進一郎は肥後天草郡上村(現・大矢野町)出身の漢学者で、十五歳の時に熊本に出て藩儒木下い村(いそん)のもとに入塾、しばしば師にかわり講義や詩文の添削もしたほどの学者でした。同門には井上毅がいて、終生水魚の交を結んだといいます。また、藩命により江戸・奥羽を視察し、この時に勝海舟と知り合っています。明治八年に上京し、大蔵省に出仕。やがて勝海舟の推薦で森有礼にしたがい中国へわたりますが、その後記した「棧雲峡雨日記並詩章」は多くの人に愛読され、その名を一躍高めました。現在大矢野町の町立体育館前には竹添進一郎を顕彰する碑が建っています。

嘉納夫人須磨子は、竹添進一郎と亀の次女ですが、長女が早くに亡くなったため、ひとり娘として育ちました。須磨子の献身的な内助の功の力は大きく、嘉納家の邸内に住んだ多くの生徒たちも母のように須磨子を慕ったといいます。

嘉納治五郎は結婚後すぐに熊本にある第五高等中学校の第三校長を任じられ、夫人を東京に残し、単身熊本に赴任します。明治二十四年八月~二十六年一月までの在任中、「端邦館」という道場をつくるなど柔道を奨励し、柔道をはじめ五高のスポーツを隆盛に導きました。また、熊本市坪井町にも講道館分場を造って有馬純臣などに指導をさせています。まさに今日の熊本の柔道の基礎はこの時につくられたといえます。


講道館を創設して


一八八二年(明治十五年)、東京・永昌寺で嘉納塾・講道館を創立します。治五郎が柔道の修行、普及につとめたのは「このすばらしいものを日本に残したい」という思いからでした。

また、嘉納治五郎は、修業の目標はあくまで教育であると「勝負法としての柔道(力学の法則にたち、科学に反する強引な技を行わない)」「体育法としての柔道(危険な技を避け、攻撃や防御の練習によって体を強健にする)」「修身法としての柔道(礼儀や精神の修養につとめ、人格を完成する)」という3つを目的としていました。もともと柔道の母胎である柔術とは、武器を持たず、武器を使う相手から自分を防ぐというものです。治五郎はその柔術のさまざまな流派の優れたところを集め、「柔道」という高い精神性をもつものにまで高めたのでした。


スポーツ発展に生涯を尽くす


嘉納治五郎は文部省参事官、貴族院議員などを経て、国際オリンピック委員会(IOC)委員として第五回ストックホルム大会に初参加をします。この頃日本はスポーツ後進国であり、オリンピックに選手を派遣する組織もまったくありませんでしたが、治五郎はスポーツが盛んだった東京帝大、早稲田大などによびかけて明治四十四年に大日本体育協会をを設立。日本がスポーツで国際舞台に活躍するための道づくりに奔走します。明治四十五年の大会で初めてオリンピックに参加しますが、東京高師の学生だった金栗四三が出場を決めたことを治五郎は大変喜んだといいます。

治五郎はオリンピックの日本(東京)開催誘致に尽力するなど、生涯をスポーツの普及と発展、また、教育に力を注ぎました。熊本においては平成十一年に熊本県近代文化功労者として顕彰、治五郎の精神は、東海大学を創設した国際柔道連盟会長の松前重義氏、ロサンゼルスオリンピック金メダリスト山下泰裕氏にも受け継がれ熊本にしっかりと根付いています。その精神ともに、熊本にゆかりの深い人物としてもっと顕彰の気運が高まればと思っています。