「山鹿千軒たらいなし」といわれるほど、山鹿は豊富な湯量を誇る県内屈指の温泉郷です。"湯の町情緒"が漂い、独特な風土を育ててきました。今回は郷土史家・國武慶旭氏をお迎えし、このほど出版された『湯町やまが』をもとに「山鹿温泉あれこれ」と題して語っていただきました。
危機を救った金剛乗寺
山鹿は湯の町です。春の温泉祭、夏の灯籠祭はことのほか多くの人で賑わいます。私も子供のころ毎年のように胸をわくわくさせながら出かけたものです。このほど『湯町やまが』を著したのもそうした懐かしさのせいかもしれません。
山鹿の歴史は古く、その名は平安時代の事典「和名抄」に「温泉郷」(ゆごう)の名で登場します。当時からすでに温泉の湧出があったことが察せられますが、発見のいきさつについては宇野親治伝説がよく知られます。それによると猟に出た折り、手負いの鹿が沼に降りて身を伏せました。不思議に思ってよく見ると、その沼から湯が湧いていたというものです。宇野親治は保元の乱で破れた後、菊池氏に身を寄せていた人です。温泉場の製備も代々の菊池氏の手によって進められてきました。
山鹿で最も古いお寺に空海(弘法大師)の開基とされる金剛乗寺があります。この寺と温泉は深くかかわっています。豊富な湯量を誇る山鹿温泉ですが、一時枯渇のピンチに陥ったことがありました。それを9日間の祈祷によって湧出させたといわれるのが金剛乗寺第八宥明法印です。
灯籠の起源とも無縁ではありません。これには2説あって、その1つが濃い霧にはばまれた景行天皇の一行を里人たちがタイマツで照らして出迎えたという故事。 そしてもう1つが温泉復活の恩人である宥明法印の大徳を偲び献籠の法会が催され、その紙灯籠を大宮神社に奉納したのが始まりという説です。いずれにしても金剛乗寺は山鹿の歴史を語る上で重要な位置を占めています。
「山鹿湯町絵図」に見る町並み
藩政時代になると、山鹿は豊前街道の宿場町として栄えます。温泉の存在が大きく寄与したことは言うまでもありません。加藤家の改易の後を受けて肥後の領主となった細川氏もこのルートで入国しています。小倉を立ち、南関を経て山鹿に泊まり、翌日熊本城下へ向かいました。すなわち、肥後での最初の一夜を山鹿で過ごしたわけです。また、宮本武蔵もやって来ました。この事実はあまり知られていませんが、山鹿PRの絶好の材料になるのではないかと思われます。
宝暦13年(1763)の「山鹿湯町絵図」を見ると当時の町並みが詳細にわかります。町家の地割、寺社、会所、茶屋などを現在と重ね合わせると、山鹿の表情がまた一段と興味深いものになります。温泉の建物が3つに分かれていたこともはっきり出ています。庶民用の「外湯」、藩家臣用の「御次湯」、そして藩主および重臣用の「御前湯」です。また敷地内に薬師堂が建っていたことも記されています。薬師堂は菊池千本槍で名高い菊池武重の建立によるものですが、もともと温泉と薬師如来はつきものでした。温泉は古代から薬の一部で病に効能があると信じられていたからです。
藩の温泉から庶民の温泉へ
明治維新は山鹿温泉も大きく変えました。その転換に当たって井上・江上両家は忘れてはならない存在です。山鹿の顔ともいうべき温泉の存続へ向けて大改築を断行します。投じた資金は一千貫といわれます。現在に換算すれば数億という莫大なものでした。中でも注目されるのは庶民用の外湯が従来の茅葺きから瓦屋根の立派な建物になったことです。それまで藩の庇護のもとに発展してきた山鹿温泉でしたが、名実共に庶民の温泉へと生まれ変わったのです。それを押し進めたのは井上甚十郎、江上津直両氏をはじめとする町衆たちの熱意にほかなりませんでした。
新築の二階建て松風館もできました。そこには狩野洞容描くところの双竜の絵が掲げられました。後には三階建ての洗心閣へと移され、現在は山鹿灯籠民芸館で見ることができます。それにしても見事な双竜です。もう一度この絵を掲げた湯の復活を願わずにはおられません。
町衆が支えたのは八千代座もそうです。劇場組合を結成し、その拠出金で建てられました。時代変化のなかで一時は廃家寸前まで追い込まれましたが、伝統の芝居小屋を消滅させてはならないという運動が市民サイドから起こり、この5月には大修復が完成、往時の雄姿を取り戻します。
山鹿温泉は泉質の素晴らしさもさることながら、町の人たちのわが町を愛する心がまた素晴らしいと思います。歴史を調べることはそうした郷土の良さを再発見することにほかならず、そのことは地域づくりの原点であると私は確信します。
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