妙見さんと呼ばれる八代神社の祭り。豪華な神幸行列に代表される見事の祭りは長崎くんち、箱崎宮のまつりとともに九州三大まつりの一つと
数えられています。八代神社と祭りの興り、変遷、笠鉾などの逸話について、わかりやすくご講話いただきました。
その要旨をご紹介します。
海を渡って妙見神のお上り
「八代神社秋期大祭」は九州三大祭りの一つで、「妙見さん」と呼ばれて親しまれています。この祭りは10月31日のしめなわ注連縄立てにはじまり、12月1日のしめ注連納めまでの長い期間に行われます。最もよく知られているのは11月23日のお上(のぼ)り「神幸行列」。チャルメラや銅鑼の音に乗せて、獅子、奴(やっこ)、木馬(きんま)、鉄砲、毛槍、白和幣(しらにぎて)、籠、神馬、神官、神輿、斎主、笠鉾(かさぼこ)、亀蛇(きだ・がめ)、飾り馬などの列が延々と続き、まつりの呼び物となっています。
八代神社はもともと妙見神を祭神としてお祀りしています。妙見神とは北極星と北斗七星を神格化した玄武神で、中国大陸から亀蛇の背に乗って八代の竹原の津に着いたといわれています。妙見さんに登場するこの「亀蛇」はその伝説から来るものですが、体は亀、頭は蛇という不思議な生き物=神獣です。その姿は中国思想から来るやはり亀と蛇の姿をした「玄武」の姿そのものです。祭神のいわれをはじめ、祭りもどこか日本ではない異国の香りを漂わせています。
細川忠興(ただおき)が復興したまつり
八代神社は以前は妙見宮と呼ばれていました。上宮が延暦14年(795)、中宮が永暦元年(1160)、下宮が文治2年(1186)にそれぞれ勅願により創建。実は794年は平安京遷都、1159年平治の乱、平氏政権確立、1185年壇の浦の戦い、平氏政権滅亡、源氏政権確立と、それぞれの創建の前年に日本の政治的な出来事が起こっています。これはけして偶然とは思われず、八代と日本の中央との間に密接な関わりがあったと考えられます。(近世になっても、一国一城令が全国的にしかれた中、熊本だけは熊本(市)と八代(市)の2つの城の存在が許されていました)
中世の八代をおさめていたのは相良氏で、「八代日記」(1515)という文書にはすでに祭礼の記録があります。その後、領主は、島津氏、佐々氏、小西氏、加藤氏と移り変わり、1632年加藤氏にかわり八代に入った細川忠興公が妙見祭を復興。神輿をはじめ、祭礼の道具や装束などを寄付し、今日の祭りの原形をつくりました。細川氏の強いバックアップは八代神社の神紋が細川藩と同じ九曜紋であることでもわかります。
時代をうつす神幸行列
忠興公没後、八代城に入城した松井家が祭礼を引き継ぎます。その後、江戸中期には、それまでは神主や武士が中心であった祭りに、多くの町衆が参加するようになりました。1764年の「八代紀行」という史料には、町人の他、農村からも人々が参加している様子が記されています。
神幸行列は塩屋八幡から八代神社までの約6キロの道を練り歩く祭りの呼び物です。現在も登場する獅子は1691、笠鉾、亀蛇が1681~1687年、奴が1752年に奉納されたことがわかっています。時代とともに次第に町衆が参加して天下泰平を楽しむ大きな祭りとなっていきました。神幸行列は昭和35年には県指定無形文化財に指定。現在は祭礼の神幸行列保存会が組織され、これに、江戸時代まではあった木馬、鉄砲隊、毛槍隊、白和幣(しらにぎて)、籠が復元して1600人の参加による行列を見ることができます。
口伝される笠鉾の組み立て
祭りには9基の笠鉾が登場し、その豪華で異国的な形は祭りの呼び物の一つとなっています。この笠鉾は八代のそれぞれの町(保存会)から出される美しい出し物です。高さはゆうに4メートルを超え、上部には菊慈童、西王母など中国の香りを漂わせる人物や縁起のいい植物などをかたどったものが飾られています。
この笠鉾は組み立て式になっていて、通常は1基につき200個以上の部品に分かれて箱の中に納められています。祭りの前になると保存会の方が釘も使わずに組み立てられます。現在でこそ図に描いたり、写真やビデオに撮影することもできますが、昔はこの組み立て方は口伝でした。それほど神聖なものであり、この作業は誰もができるものではなかったのだと思います。私どもは平成4年から6年にかけて実測図化調査の他、これらの笠鉾がいつ頃できたか、またどういう壊れ方をしているかなど綿密に調査を行った後、11年まで5ヶ年間にわたり修復作業を行いました。それは次の世代へ伝えていくための記録です。
つい最近、長いこと行方がわからなかった「象と唐子」の笠飾りが発見されました。祭りにはさまざまな笠鉾が登場します。豪華な神幸行列は八代の伝統と町衆の力が象徴されています。(この講話は11月13日に行われたものです。)
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