ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.087 大矢野生まれの女傑 「 オロシアおエイ 」

講師/郷土史家・大矢野町在住  水野 敏行氏

県観光連盟主催、県観光物産課後援「ふるさと寺子屋塾」。熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。 県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授して頂いています。


今月のテーマは大矢野生まれの「オロシアおエイ」です。要旨をご紹介します


深いロシアとの縁


「オロシアおエイ」あるいは「稲佐お栄」と呼ばれた大矢野町出身の女傑をご存じでしょうか。

長崎市稲佐に「お栄さんの道」と刻まれた記念碑が建ち、そこには次のように記されています。〈「稲佐お栄」と親しまれた道永エイは万延元年(一八六〇)天草四郎時貞で有名な天草大矢野島で出生、十二歳の頃来崎し、シベリア・上海へもロシアの軍艦で渡り、長崎に落着いた後はホテル業を以て国際親善に尽くした。坂本龍馬ら勤皇の志士を助けた大浦お慶、日本で始めての西洋流女医シーボルトおいねと共に長崎の三大女傑といわれる。昭和二年(一九二七)数え年六十八歳で波乱の生涯を閉じた」〉

私がお栄さんのことを知ったのはもう二十四年前のことです。新聞記事で読み、同郷の大矢野生まれということで興味を引かれました。さらに、私の家のすぐ近くにお寿司やさんがあり、そこの直江ヤス子さんという方が親戚筋に当たるばかりか生前のお栄さんを知っておられました。話を聞くにつけいよいよ関心が深まりました。

お栄さんの家は大矢野町の登立宇治郎田光瀬家の出身で、光瀬家は代々庄屋をつとめる家柄でしたが、十二歳の頃両親を亡くしたため遠縁を頼って長崎へわたり、やがてロシア将校クラブで働くことになります。

当時の長崎市稲佐はロシア極東艦隊の基地として栄えていました。冬の間、ウラジオストックが氷に閉ざされるため稲佐を母港代わりに使っていたからです。教育こそ受けていませんが、努力家で頭の良いお栄さんはじきにロシア語も覚えます。「オロシアおエイ」のスタートです。


ニコライ皇太子を接待


私が所持している二葉の写真があります。二十一歳の頃と四十歳の頃のお栄さんです。なかでも二十一歳時のお栄さんはとても明治初期の女性とは思えません。現代でも立派に通用する美人です。ロシア艦隊のアイドルとしてペテルブルグ(現レニングラード)まで聞こえたという話も頷けます。

昭和四十九年、宝塚劇団が有馬稲子主演「鶴の港長崎異人館」と題してお栄さんの生涯を劇化し好評を博しました。ただこうした場合、実在の人物と演じる人物とでは相手はやはり女優さんです。魅力という点では、どうしても舞台の方に軍配があがってしまうものです。でもお栄さんに関しては勝るとも劣らない、それほどの美貌の持ち主でした。

しかし、お栄さんの真の魅力は美貌ではありません。長崎の郷土史家・原勇氏は「お栄さんは路傍に額づく乞食の心も、玉座にある皇帝の心もちゃんと心得ていた。それほど人心の機微をつかむことができ、またどんな難関にぶつかっても平気で突破前進し、どんな事業でも成し遂げるだけの才能と勇気と忍耐と意志の力をもっていた」と感嘆しています。私もヤス子さんから聞いた一つのエピソードを思い出します。それは子供の頃、ヤス子さんが魚屋を訪ねた印象として「狭くて汚かった」と答えたとき、お栄さんから厳しくしかられ「親のしつけが悪い」とも言われたそうです。お栄さんはホテル業で大成功を収めますが、終生どんな相手にでも分け隔てなく接する心の持ち主でした。

そのお栄さんのハイライトというべきはおしのびで来たロシアのニコライ皇太子の接待役を務めたことです。持ち前の開放的で洗練された社交性で見事に民間外交官の役を果たしました。皇太子はその直後に日本人に斬りつけられる「大津事件」に遭遇するだけに、お栄さんの心からのもてなしが唯一の思い出深いものになったに違いありません。


晩年は奉仕と供養の日々


お栄さんは「ロシア艦隊の母」とも呼ばれました。しかし、ロシアと日本の関係は次第に悪化します。お栄さん自身もロシアのスパイといった目で見られますが、いささかも動じることはありませんでした

日露戦争をはさんでロシア陸軍大臣クロパトキン、旅順要塞司令官のステッセル将軍がお栄さんのホテルを訪れています。ステッセル将軍は捕虜としてでした。お栄さんは紋付きの礼装で迎え、極上の紅茶を出して丁重に対応しました。

ロシア海軍の滅亡はお栄さんのホテル業の終わりも意味したはずです。しかし、さすがはお栄さんです。稲佐から茂木へと場所を移し、以前にも増して立派なホテルを建てて見事に再起するのです。

お栄さんの晩年は社会奉仕とロシア将兵の供養の日々に費やされました。日赤に匿名で多様の寄付をし、悟眞寺にあるロシア人墓地の手入れの面倒を見ました。実はそのことが平成三年、ソ連(当時)元首としては初めてのゴルバチョフ大統領の稲佐のロシア人墓地の墓参にもつながりました。また、お栄さんがずっと胸を痛めていたことはニコライ皇太子、すなわち後のロシア最後の皇帝ニコライ二世がロシア革命で家族ともども無残に処刑されたことでした。しかしそれも平成十二年、ロシア正教会がニコライ二世とその家族を「聖人」に列することを決定しました。名誉は回復されたのです。

お栄さんは数え年六十八歳で亡くなりました。最期を見とった医師によると、枕元で泣いている家族を見やり「人間死ぬのは当たり前。なんで泣くのか」とたしなめたということです。まさに女傑にふさわしい生涯でした。