遠来のお客様をおもてなしする場所として、熊本県下ではどこがベストでしょうか。よくそんなことを尋ねられる。
数限りなくある。
しかし、その中から第一級のおもてなしの「迎賓館」として私は「古今伝授の間」をあげる。
その素晴らしさは私たちに馴染み深い存在だが、単なる名所に留まっていた。その実体が(難解なこともあって)あまり語られてこなかったからだろう。古今伝授の間のことは一部の研究者の手にゆだねられて、なぜか特別扱いにされてきたようだ。
「古今伝授の間」はここしかない
今年、平成十二年(2000)は、細川幽斎が後陽成天皇の弟君・智仁(としひと)親王に古今伝授をした慶長五年(1600)から数えて節目の年、400年に当たる。また、伝授の間がいまの水前寺公園の池畔に移築復元された大正元年からは八十八年の米寿を数えるめでたい年でもある。
折しもNHK大河ドラマ「葵三代」では後陽成天皇、智仁親王はじめ、幽斎が登場した。幽斎の田辺城籠城と古今伝授のエピソードについて中村梅雀が語った。
いい機会だ。歴史を偲び、五感で味わうことができる伝授の間はここにしかないのだ。今まで神秘のベールに包まれ白い霧の向こうにあった古今伝授の間を浮き彫りにし、共有の財産としたいーー。
専門的にならぬように、くまもとの歴史遺産の再確認、ひいては観光の糧になるように四〇〇年の時空を今にたぐりよせてみよう。
桂離宮と並ぶ八条宮家の遺構
熊本で第一級の迎賓館、いや日本でも屈指のもの、と胸を張るにはそれなりの理由がある。この建物は京・八条宮邸の中の八条宮智仁親王の学問所とされていた。この部屋で親王は幽斎から古今伝授を受けた。かけがえのない由緒があること。
その建築が(幾許かの材の補充はあったものの)当時の材のまま原図通りに復元されている貴重な文化財であること。(熊本県・重要文化財)
この二つの深い歴史的意義をもっている。
「古今伝授の間」と呼ばれるのは、この地に移されてから。その歴史的意味を込めて名付けられた。
桂離宮と並ぶ八条宮家の遺構と賞せられることの部屋の中に入ると、公家のもつ明るい開放感につつまれる。日本の和歌の奥義を受けた部屋の豊潤な文化の香りが漂ってくる。 親王の御手がふれた柱、幽斎が賞でた床框がある。お二人の息づかいが漂う。
この幸せは他では絶対に味わえない。
この畳の上でお抹茶を差し上げるおもてなし、これぞ熊本の"迎賓の間"と声を大きくできる価値ある建物である。
幽斎から親王への伝授は…
慶長五年三月十九日、智仁天皇は誓状を提出し、ここに幽斎から親王への古今伝授が開始された。
それは先述の京都・今出川の八条宮邸の中の御学問所で行われた。(宮内庁書陵部には、その伝授の資料が残されている。)時に幽斎は六十七歳、智仁親王は二十二歳であった。
その由緒ある学問所が、後に移築復元され、いま私たちが親しく「古今伝授の間」とよんでいるこの部屋(建物)そのものである。
伝授は一時中断される
慶長五年(1600年)すでにご存じのように天下の分け目の関ヶ原の戦いの年である。家康側の東軍と秀吉の恩義を奉じる西軍との戦いを前にして世上は騒然としていた。
京にて智仁親王に古今伝授をしていた幽斎の身にも戦火が波及するのは世の必然である。
幽斎の所領は丹後(舞鶴市)である。その居城は田辺城である。
幽斎は風雲急を告げるなか、やむを得ず親王への古今伝授を中断して五月二十九日参戦準備のため帰国。(「幽斎帰国、依出陣用意也」)(舜旧)入城し家康に従う東軍の旗色をかかげた。その田辺城を石田三成の大軍が攻め、包囲した。(七月二十一日)その数は一万五千。 籠城の幽斎は死を覚悟した。
当時、幽斎は唯一の古今伝授の後継者であった。自分が死ねば伝授が滅びることを案じて幽斎は七月二十九日古今伝授の箱と相伝証明状とを智仁親王の使者に渡した。
親王への古今伝授は中断を余儀なくされたとはいえ、古今伝授資料を渡すことにより、そのすべてが終了したとして、証明状を与えたのである。
これで古今伝授の道統は 絶えない。幽斎は心残りなく戦える手だてを万全にした。が、再び朝廷から和平開場使者が赴く。幽斎の決意は不変。
このため天皇は最後には遂に勅使を派遣して幽斎を説き伏せる。
攻撃側は勅命に従い囲みを解き、幽斎も和平開場に従った。関ヶ原の合戦直前の九月十二、十三日頃とされている。
武家の戦いに天皇がかかわったのは日本の歴史でこのときだけである。
関ヶ原合戦前の小さな局地の一つにすぎない田辺城攻防は幽斎という人物がいたためにこのドラマが大きくクローズアップされ、多くの記録にも残され、世の関心を集めた。
「伝授の間」はいつ建てられたか…
八条宮家の創立が後陽成天皇の御代、秀吉全盛期の天正十八年(1590)、智仁天皇が古今伝授を受けたのが慶長五年(1600)だからこの十年間に建てられたことは確実だ。
由緒ある建物である。京都では火災の心配があるからと、後に智仁親王の皇子・智忠親王が、現・長岡京市にある長岡天満宮の境内に移築した。その年代を明確にする資料は欠けているが、八条宮邸は万治四年(1661)に焼失しているので、それ以前である。移築後の証は、現在長岡天満宮に残された幕末の頃(元治元年(1864))の境内絵図に、その建物が描かれていることから判る。
八条宮家は桂宮と改称され、時代は明治を迎える。当時の桂宮家は伝授の間が細川家ゆかりのものとして維新の際に細川家に下賜された。
細川家は建物を解体し、そのまま大阪の蔵屋敷に保存されていた。大切なもの、いつか然るべき場所にとの思いがあった。
細川家では、それを出入りの某商人に給与した。明治四十四年に商人からの寄附の申し出があったので保存中に腐朽した木材を補充して旧図の通りに、ここに(大正元年)復元した‥‥。
伝授の間の変遷の大略を伝授の間の入口にある説明文を補足しながら述べてみた。
親王、幽斎の古今伝授は、まさに歴史に残る大事業であった。その記念すべき建物を、なんとかして保ち続けていこうとする細川家の文化的使命感の志の高さが、この建物に一貫して流れている。
熊本の貴重なこの賜物の意義をお互いもっとかみしめたい。
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