ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.085 「 かくれ念仏の里 」

講師/山江村歴史民族資料館  菖蒲 和弘氏

熊本で殉教というと天草・島原の乱が想起され、隠れキリシタンの哀史が涙を誘います。しかし、遠く海を隔てた人吉・球磨地方でも命をかけて信仰の灯を守りつづけた人たちがいました。いわゆる「かくれ念仏」です。あまり知られていない一向宗禁制の埋もれた歴史を山江村歴史民族資料館の菖蒲和弘先生にご講話いただきました。
その要旨をご紹介します。


特異な歴史を秘めた仏教文化圏


人吉・球磨地方は「仏の里」です。独特の仏教文化圏が形成され、現在もこの地方の風土の一部となっていますが、 そこには特異な歴史が秘められています。相良藩による浄土真宗(真宗・一向宗)の禁制です。それも300余年という長きにわたって 続けられました。しかし、かくれキリシタン同様、かくれ念仏の信仰の灯は消えることはありませんでした。 ただ、ここで注意してもらいたいのは「かくれ念仏」といってもすべての念仏が禁じられたわけではありません。 相良氏の菩提寺・願成寺にも「南無阿弥陀仏」と刻まれたお墓があるように、ご法度とされたのは浄土真宗とそれに日蓮宗に限られました。 また、真宗禁制は全国でも相良藩とお隣の島津藩だけと説明されてきましたが、宮崎の高鍋藩や琉球でも行われました。

浄土真宗は開祖親鸞の死後、本願寺を本山とし、幾多の曲折を経て蓮如の時代に隆盛を極めます。 加賀国を領国とした一向一揆や織田信長と死闘を展開した石山合戦などはよく知られています。浄土真宗は一向宗とも呼ばれますが、 本願寺ではこの呼称を嫌い、「浄土真宗」と名乗るべきと説いています。しかし、本願寺と門徒の間にはそれぞれの信仰において 少しずれがあったようで、「一向宗」とは門徒独自の信仰といえるでしょう。相良藩が禁制としたのも一向一揆に見られる戦闘的な組織力を 危険視したからにほかなりません。


痛ましい犠牲者・山田村の伝助


相良藩の取り締まりは厳しいものでありました。宗門奉行を頂点に村々に監視の目が張り巡らされ、毎年、春と秋には「宗門改め」が行われました。 さらに檀那寺からは「寺請証文」、村からは「宗門人別帳」、五人組からは「証文」を出させるなど徹底していました。 これに抗して門徒たちは秘密の「講」(信仰集団)をつくり、それは親から子へと受け継がれていきました。講には「仏飯講」「相続講」などがあり、 領外の浄土真宗のお寺を通じて本山の本願寺への上納も行われました。こうした金銀流出という事態も相良藩が禁制という措置をとった 理由の一つです。

「一向宗のもとは他方より来り候する」と記録にありますが、真宗僧侶の潜入も絶えませんでした。彼らは油売りや薬売りなどに変装して布教に 努めました。その一人に天草からむしろ打ちの職人に化けて入った僧侶がいました。亡くなったとき本名がわからず「筵(むしろ)打御坊」とだけ墓に 刻まれましたが、思慕の念を寄せる門徒の数は1200人にも及んだそうです。そこには並々ならぬ信仰心、団結力の強固さがうかがえます。

「毛坊主」と呼ばれる人もいました。これは「講」の世話役で、必要なときに僧侶の代わりをしたり、領外の真宗のお寺との連絡役などを務めました。 正式の僧侶でなく有髪妻帯の俗人なので「毛坊主」というわけですが、彼らの存在は大きく、長い禁制を耐え抜いた原動力でした。

その象徴的な人物が山田村の伝助です。寛政8年(1796)発覚、獄門に処せられました。私たちは普通打ち首を最高の刑と考えがちですが、 獄門は見せしめのための引回しの上、はりつけという最も重い刑でした。それだけ相良藩は真宗に神経をとがらせ厳罰をもって臨んでいたわけです。 今、山江村(明治22年、山田村と万江村が合併)の合戦峰(かしのみね)に殉教者・山田村伝助の墓供養碑が残されています。


相良700年と一向宗禁制300余年


江戸期、幕府は浄土真宗信仰を認めていたにもかかわらず、人吉・球磨はずっと禁制下に置かれ続けました。許されたのはようやく明治5年(1872)、明治政府によって「信仰の自由」が布達された以降のことです。でも、ひょっとしたらもう少し早く解禁されたかもしれないのです。 それは幕末、鳥羽伏見の戦いのとき、京都に到着した相良藩主を本願寺主が見舞っているからです。そのときどのような話がなされたか、 果たして藩主が直接対面したのかなど、詳しい内容がわかっていないので何ともいえないのですが、 本願寺側から和解の提案がなされた可能性はあり得たと思われます。今後の解明が大いに望まれます。

このように真宗禁制の歴史はそれが「かくれ念仏」ということもあって隠された部分、不明な点がたくさんあります。いや、分からないことだらけ といって過言ではありません。山江村歴史民族資料館では現在、禁制に関する史資料・遺物などの所在確認、調査に積極的に取り組んでいます。 これは散財を防ぐために欠かせない作業だからです。その成果の一端を昨年オープン時に続き、来る11月に第2回「相良藩と一向宗禁制」展 として開催します。興味ある方はぜひお越し下さい。

人吉・球磨は「相良700年」といわれますが、それと同じく「一向宗禁制300余年」もかけがえのない歴史です。当時の人々が一向宗に何を願い、 どのように信仰し、相良藩はどう対応してきたか。私は「かくれ念仏の里」に様々な角度から光を当て、正当に評価し、人吉・球磨の風土を より豊かにしたいものと願っています。