ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.083 「 時習館 」

講師/肥後金春流十三代宗家  中村 勝先生

県観光連盟主催、県観光物産課後援「ふるさと寺子屋塾」。 熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。 県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに添った内容で、権威ある講師の先生を招き教授して頂いています。


今月のテーマは「時習館」です。


近世になると各地方に、教育機関として藩校、私塾が興りました。 熊本の藩校「時習館」は宝暦5年(1755)、現二の丸公園に細川藩八代藩主細川重賢(しげかた)が創立。朱子学者秋山玉山を初代教授に、以来明治3年まで肥後学問の中心となり多くの優れた人物を輩出しました。時習館と当時の時代背景について中村勝先生にご講話いただきました。その要旨をご紹介します。


時習館誕生の背景


江戸時代になると各地で次々に私塾が興りました。さらには各藩に相次いで学問所が創設されました。

肥後熊本も例外ではなく、細川重賢の時代(1755年)に藩校「時習館」が創立されます。 藩内の子弟の人材を育成することを目的としていましたが、庶民の子弟でも学力抜群な人物には入学が許されました。

時習館創立時、藩の財政は大変逼迫していました。細川重賢は上下一致して生活を切り詰めて藩を再建すべく倹約令を出します。さらに行政、刑法などの藩政の改革を行い、精神面においては倫理を正し、文武の道に励むよう諭します。時習館はまさに名君・重賢が行った「改革」の一つであり、藩が目指す人材の育成と肥後の文学の拠点であり、又、全国でも有数の藩学でした。


文武両道。幅広い分野の教育機関


時習館は文芸教授所の学舎、武芸演習所の東しゃ (※)、西しゃ (※)という建物とともに現在の熊本城二の丸公園の辺りにつくられます。その学識の高さで江戸でも名を知られた秋山玉山を初代教授に据え、その他多くの名のある訓導陣のもと、子弟たちは文武両道を学びました。学科は漢字、習字、修学、音楽、馬術、居合、長刀、遊泳など実に多彩で、三年を一期とし、特に問題がない限り何度も続けることができました。

教科書は四書五経で、特に論語は当時の大切なテキストでした。 ちなみに時習館は「論語」の中の「学んで時にこれを習う、またよろこばしからずや」から付けられています。学問、武術の習得はもちろんですが、時習館の精神は「仁義礼智信」に貫かれ、礼儀・礼節が大変重んじられていました。

※ きへんに射


日記で見る当時の師弟関係


「恕齋(じょさい)日録」という中村如齋という人が記した日記(弘化二年(1854)~明治三年(1870))があります。これは時習館の訓導であった私の祖父の祖父にあたる人物が記したもので、当時の暮らしぶりや時習館でのことが詳細に書かれています。肥後の維新期はその時代を語る資料が少なく、なかなか研究が進められていませんでしたが、これを手がかりに多くのことが明らかになってくると思います。現在解釈と研究が進められている大変貴重な史料です。

この中には当時の人々の暮らしぶりや時習館が登場しますので少し紹介します。

正月四日(弘化二年 ― 1845)
 若殿様時習館開講御入、并、召出初出之式

正月十三日
 時習館御鏡餅并御酒御鮑頂戴之事

お正月になると時習館でも鏡開きなどがあっていたようです。

宇土小路会連中、西村ミ藤崎列集会酒肴出す、
  諭方相誘小鳥飯振舞

このように、昔の先生というのは生徒を気軽に家に呼び、いろいろとお酒や料理を振舞っていたものでした。学校を離れたところで一緒にものを食べたり、論議をする子弟の交わりは、昨今失われてしまった大切な教育の原点ではないかと思います。

一御父様色々御雑話之内に被仰候二者、手を拍て下さまを呼候二者、余りよく鳴り過るハおごりて不宜‥

父から「おごるな」と言われたことが記されています。 この決しておごることなかれという精神はこの時代に求められていた「中庸」の考えにつながることでした。

このように日記をたどっていくと、この時代の人々の暮らしや考え方が生き生きと浮かび上がってきます。全部で26年分ありますが、肥後の幕末維新の歴史とたどりながら今後、ゆっくり読み進めていきたいと思っています。


人づくりを目的とした時習館


「如齋日録」には朱子学のことが「正学」と書かれています。当時主流であった朱子学は現代において、横井小楠に代表される実践を旨とした実学としばしば比較されますが、朱子学 ― 正学とは万人が学ぶべきことで、学問や人の道として評価すべきだと私は考えます。

時習館では朱子学や軍学・音楽、数学などあらゆる学問を一流の訓導陣から学ぶことができました。 すなわち時習館が本当に目的としていたのは人材の育成でした。 「心を修める」こと、言い換えれば人はどうあるべきかという根元的なことを学びつつ、政治経済にこれらを用いることが期待されたわけで、当時人々は藩を挙げて土地の干拓や灌漑、植林、橋の建設など国内のインフラ整備にあけくれていました。

教育のあり方が問われている現代、時習館やそのバックグラウンドを研究することで大切な事柄が改めて見えてくるのではないかと思います。