中世肥後の最強の豪族として名をはせる「菊池一族」。元寇の役や南北朝の動乱などで大活躍をするなど、その活動の場は肥後だけでなく日本全国を舞台にしていました。また、合議で物事を決定するという民主的な「菊池家憲」を定めるなど先進的な考えを持ち、また、文武にすぐれた一族でした。菊池氏を祀り、今年創建130年を迎える菊池神社の坂本杲宮司に、菊池一族についてご講話いただきました。その要旨をご紹介します。
忠誠の一族・菊池氏を祀る菊池神社
明治3年に創建された菊池神社は今年で130年を数えます。この神社では菊池武時公、武重公、武光公を主神としてお祀りしています。
菊池神社は明治11年に別格官弊社としての社格を与えられ今日に至っております。菊池氏がなぜ神となり祀られるようになったのでしょうか。それは菊池氏が公のために尽くした忠誠の一族であったことがひとつの理由としてあげられると思います。
中世の肥後最大の豪族だった菊池一族。藤原氏の流れをくむ藤原則隆公が肥後の国菊南池に下向したことから菊池24代500年に及ぶ歴史が始まります。神社に残る歴史資料館とともに菊池氏24代の歴史とその時代を見ていくことにしましょう。
元寇の様子を伝える「蒙古襲来絵詞」
菊池氏2~6代の時代はちょうど奥州平泉の藤原文化が花開いた時期でした。4代経宗(つねむね)公、5代経直(つねなお)公 は鳥羽院武者所として中央で出仕します。時に源平合戦が起こり、6代隆直(たかなを)公は以仁王の命をうけて源氏とともに平家を討ちますが、後に平家側である安徳天皇に従い平家方に。平家が破れると菊池氏は鎌倉幕府より疎まれ、7代隆定(たかさだ)公時代には不遇の時期を迎えます。しかし平家落人の例のように、本来ならば絶えるべき命運にありながら一族が存続したのは、ひとえに菊池氏が大きな勢力と財力を持っていたからに他なりませんでした。
菊池神社には「蒙古襲来絵詞」という貴重な資料の写本があります。1274年、1281年と2度にわたって蒙古が日本に攻め入った「元寇」の合戦の様子が描かれたもので、原本は国宝として宮内庁に修蔵されています。この蒙古襲来に際して活躍したのが10代武房(たけふさ)公で、蒙古襲来軍に大打撃を与え、一躍勇名をはせました。
五ヶ条の御誓文の範にもされた「菊池家憲」
12代武時(たけとき)は菊池神社の主祭神です。武時公は建武の中興の忠厚第一のかたであります。武時公は後醍醐天皇の綸旨と錦旗を奉じ、少弐、大友氏とともに北条氏を倒すべく九州探題を襲撃しますが、少弐、大友氏の寝返りにより多勢に無勢で一族郎党悲惨な最後をとげます。しかし息子の武重公は肥後へおちのび、一族は滅亡を免れました。
国指定文化財の菊池家憲「寄合衆内談の事」という古文書はこの13代武重(たけしげ)公自筆の血判入りの起請文です。不安定な時勢にあって武重公は寄合衆を定め、菊池家の精神と政道をあきらかにしました。寄合衆とは内談衆ともいい、管領を議長とする合議制をつくる人々です。国務の政道は独裁でなく、官僚以下の内談衆の合議で物事を決定するということが明言されており、これは今日でいう議会制民主主義の精神です。この精神と道は明治維新の大もとである五ヶ条の御誓文、また、明治憲法に活かされ、現代の憲法にも強く連結されているのです。
「菊池千本槍」すぐれた武人としての菊池氏
武重公は足利尊氏の大軍に対し、竹の先に短刀を付けた槍を作らせて応戦します。それまで日本には槍というものはなく、画期的な武器として名を馳せました。武重は菊池に帰ると延寿という刀鍛冶に命じ千本の槍を作らせます。これが世にいう「菊池千本槍」です。
菊池神社の近くには勇壮な騎馬像がありますが、これは、15代武光(たけみつ)公の姿です。後醍醐天皇の皇子懐良親王を迎え、武家方と応戦。数百を超える交戦の末、九州全土を平定した武将でした。17代武朝(たけとも)公の時代になると南北朝が合体。足利幕府が興り、騒然とした時代も一応落ち着きをみせることになります。
「肥後の文教菊池にあり」。菊池氏の高い文化性
21代重朝(しげとも)公は儒教を広めた人物として知られます。応仁の乱の最中にあって孔子堂を立て、学校をつくり学問を講究しました。周囲では夜になると論語を読む声が聞こえたということです。幕末に熊本で私塾が一番多かった地が菊池ですが、「肥後の文教菊池にあり」とうたわれたように肥後の文化、学問の拠点としての礎は菊池氏によってつくられたといってもいいと思います。
神社では毎年例祭に御松囃子能が奉納され、幽玄の世界を展開します。武光公の時代に入ってきたこの能は、都では世阿弥が申学を能楽に変化させていきましたが、その原形を変えず、伝えられた当時のままの姿をかたくなに守っています。
終始南朝側につき、天皇を奉じた忠誠の一族菊池氏。その精神文化は連綿と続くこの御松囃子能にも象徴されているといってもいいでしょう。そして厳かさと美しさをもったこの能を目の当たりにすることで、現代に生きる私たちも菊池氏の精神文化を少しでも垣間見ることができるのです。
24代武かね公を最後に菊池氏は絶え、500年の歴史をいったん閉じますが、菊池氏は宮崎県児湯郡西米良村へおち、明治まで米良の殿様としてすごしたということです。
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