中世の肥後は、各地で力を持つ一族「国衆」がそれぞれの領地を統治していました。天正15年、豊臣秀吉による九州平定に伴い、佐々成政が肥後の国を与えられますが、検地を強行したのを理由に国衆たちの反乱にあいます。各地では壮絶な戦いが繰り広げられ、現在の三加和町付近を治めていた和仁一族は秀吉の一万の大群に対し一千の兵で2ヶ月も戦ったといいます。国衆一揆の背景にあった秀吉の政策、和仁一族の戦いを伝える資料などについて國武慶旭様にご講話いただきました。その要旨をご紹介します。
太閤秀吉の全国統一の布石だった佐々成政の肥後入国
中世の肥後を語る上で欠かせない戦い「肥後国衆一揆」。天正15年、秀吉の命により肥後国主となった佐々成政に対し、52の国衆たちが反旗を翻した戦いです。この一揆は単に肥後の一地方の反乱ではなく、日本全体の時代背景と大きく関わる戦いだったと言っていいと思います。
天正13年、豊臣秀吉は四国の平定を終えると、全国統一に向けて2年後に九州へ入ります。同15年3月、秀吉は小倉へ入り、その後は次々に九州を平定していきます。4月には肥後へ入っていますので、まさに破竹の勢いです。そのスピーディな秀吉の九州平定の理由には前段階がありました。すなわち、九州に入る前、秀吉は既に本州から黒田如水、毛利、小早川、吉川などの有力者を送り込んでいたのです。豊臣秀吉はこれらの有力武将たちを使って、九州を治めさせるよう仕向けました。また、肥後の国を賜った佐々成政もその一人で、領主となることで、いわば国衆が台頭する肥後の"地ならし役"という大役を仰せつかったのでした。新しい時代をつくるという秀吉の構想の布石の一つだったのです。
国人らの解体を目指した秀吉の政治構想
秀吉の政権構想の重要な点は、国人領主らの中間得分を排除することであったと思われるのです。中世末期における得分とは「領主職プラス名主職」を指すものであって、これらの中間搾取を排除して小農民を直接支配するものとし、検地によって農民を年貢納入者とすることでした。即ち(兵農分離にもとずく石高制と身分支配)が目的です。秀吉は「掟」で其国郡の知行之儀、給人は被下事は当座之儀に候、給人は替り候といえども百姓は不替者に候と定めています。武士は近世城下に住居させ、百姓は濃厚に専念するような政策を前提として九州平定の構想にあたったものと思われるのです。
従来までは戦国大名から国人は領地安堵を受けていたのですが、一挙に領地は大幅に縮小され、その上"所付は佐々成政より目録で受け取れ"と朱印状で命じられます。その所付(領地の所在地)を決めるために成政は国人に領地台帳の提出を命じたものと推定されますが、最初に隈部親永に提出を求めたところ親永はそれを拒否。不服として隈府城に楯て籠もりますが成政軍の総攻撃を受け城は落城したのでした。隈部父子は山鹿の城村城に一族郎党婦女子、一万五千の勢力で籠城します。これが国衆一揆の第一ラウンドでした。 これに対し成城は、8月12日、兵を率いて城村城を包囲しました。翌13年に成城軍は総攻撃を開始しましたが、ところがこの時隈本城より急使が到着、隈本城が甲斐宗立勢と阿蘇衆・菊池武国らの一揆勢が隈本城を包囲したとの情報により、成政は急遽作戦を変更して、14日には隈本城の包囲網を潜り本丸に帰城したのです。ところが一揆を勢の内の阿蘇衆の早川・坂梨らの反忠勢が、神文をまとめその夜の内に成城に反忠致すとの申し出をし、翌日は甲斐・菊池らの中心勢力は前後左右より攻撃をうけ壊滅したのでありました。この時の戦死者は4900人とも伝えられています。
和仁城攻めを伝える日本最古の陣取り図が現存
一連の肥後国の一揆情勢の連絡を受けた豊臣秀吉は、久留米城主の小早川秀包に出陣を命じたのです。第一陣に小早川(毛利元就九男)・立花宗茂・筑紫広門・鍋島直茂・龍造寺政家らの軍勢を派遣しました。第二陣には芸州衆(広島)安国寺恵瓊・粟屋・古志・伊勢・小田・日野の両毛利軍勢の約一万の大軍が一応大津山に勢揃いの後、和仁城を包囲したのです。総攻撃を行いましたが要塞賢固な城は落ちず、長期戦に切り替え兵糧攻めの作戦をとったのです。
実は和仁氏平定にあたり、秀吉は陣取図をしるしています。その絵図が山口県文書館に保管されていたのですが、それを発見したとき私は大変感動をしました。(何故山口県に保管されていたのかというと毛利氏が田中城の戦に関わっていたからです)絵図は「雲雁(もがり)」と呼ばれる竹柵で城の周りを二重に囲むという、秀吉が得意とした兵糧攻めの戦法が克明にわかるものでした。私は絵図に示されている陣と城との間の距離を実際に計りましたが、ほぼ正確でした。この陣取図は日本最古のもので、これを見ると合戦の様子が大変リアルに想起されます。
和仁氏は秀吉の周到な戦法や大軍に対し、一糸乱れぬ結束で約2ヶ月もの間抗戦をしました。国衆たちが天下人・秀吉の軍に次々と城を明け渡していく中、和仁氏は最後まで玉砕覚悟で戦いぬくことを選んだといいます。私は戦況の不利が自明であるのにかかわらず、天下人・秀吉を相手に堂々と戦った和仁氏に、昨今失われてしまった「大和魂」というものを感じずにはいられません。
中世の終焉、新時代の到来
田中城が落ち、肥後国衆一揆が終わると秀吉は、2万の大軍を肥後に送り、ほとんどの土地で検地を行ないます。秀吉にとってこの戦は"渡りに船"だったのかもしれません。佐々成政の処分後、肥後には加藤清正が入国。肥後は清正により新時代にふさわしい立派なまちがつくられていきます。そして秀吉が計画していた「石高制」は、徳川家康の時代に完全に制度化します。
肥後国衆一揆と同時に中世は終わりを告げましたが、新しい時代への転換という意味では、私は明治維新と全く同じ歴史的意義を持った、"戦い"であったのではないかと思うのです。私たちはこの戦いを、大きな歴史の一頁として認識し、後世にもっと伝えていかなければならないと思います。
|
|