ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.077 「 鞠智(きくち)城物語 」

講師/熊本県立装飾古墳館長  桑原 憲彰先生

鞠智城は現在の菊鹿町にあり、1300年前に大和朝廷が築いた古代山城の一つです。
昭和の初め頃からの現地踏査や発掘調査をもとに、八角形の鼓楼や兵舎が復元されるなどその概要が明らかになりつつありますが、今尚多くの謎に満ちています。
今回は、発掘調査にも加わり、鞠智城について造詣の深い熊本県立装飾古墳館長・桑原憲彰先生に、鞠智城と城にまつわる歴史や伝説をご講話いただきました。その要旨をご紹介します。


大和朝廷が築いた国を守る城


鞠智城は鹿本郡菊鹿町米原地区から一部菊池市にまでかかる広大な規模を持つ城です。昭和42年から発掘調査がおこなわれ、私も初期の調査と、第八次 ・ 九次調査を直接担当いたしました。

鞠智城は大和朝廷が築いた古城山城ですが、築城の背景には当時の緊迫したアジア情勢がありました。唐と新羅が百済を滅ぼしたのに対し、大和朝廷は百済復活のために援軍を送りますが、白村江(はくすきのえ)の戦いで唐と新羅の連合軍に敗北。危機感を覚えた中央が国防措置として築いた山城でした。当時鞠智城を含む11の城が西日本を中心に造られたことが国書「六国史」に記されています。(現在11のうち6つの城しか発見されておらず、鞠智城も昭和の初めまで長い間その場所を特定できませんでした)

当時、国の尽きるところ(果て)と言われるほど中央にとって遠い存在だった筑紫の国(九州)に、大和朝廷直轄の城が築かれたことは驚くべきことです。また、国書にも度々登場しており、当時は非常に重要な目的を持っていた要塞だったようです。その機能や目的とはどのようなものだったのでしょうか。


山城が築かれる以前にもあった?          ――― 鞠智城の謎


鞠智城はまずその築城年代が明らかではありません。また、国防のためなら何故国の出発機関の太宰府から70kmも離れた大陸部に築かれたのかその目的もはっきりしていません。

築城の時期は、日本書紀に「朝廷が白村江の2年後に同じ山城である福岡県の大野城、佐賀県の基肄(きい)城を築いた」と記録があるので鞠智城も同時期であろうというのが通説です。しかし私は鞠智城の築城目的を考えるとその時期はもっと遡るのではないかと思います。というのも、鞠智城には、堀切門、深迫門、池ノ尾門とあわせて3つの門がありますがそれらはいずれも南にしかありません。唐、新羅の脅威に備えるというより熊本以南の隼人族、熊襲などに対する前線基地の意味合い持っていたのではないかと推測できるのです。つまり、大和朝廷の全国統一のため、南九州に対する基地がすでにあり白村江以後の国防処置を契機に山城としてリメイクされたのが鞠智城ではなかったのかと私は考えます。


城から行政所、郡倉、寺院へ ―――


鞠智城の貯水池跡からは「奏人□五斗」と文字が記された木簡が見つかりました。木簡は今の荷札のようなもので、これは鞠智城が行政的な役割を担っていたことを示しています。度々国書に登場する鞠智城ですが、奇妙な記事内容はともかく、875年頃には菊池郡の倉としての役割を担っていたことがわかります。879年の記事では鞠智城院と記されており、寺院の性質も帯びていた可能性があります。

また、9世紀後半には「米倉十一棟が焼けた」という記事が登場します。実際にこの辺りには炭化した米がざくざくでてくるのですが、倉の一つ一つは離れたところに立てられていますので1棟の出火で全ての倉が類焼するとは考えられません。私はその当時、鞠智城の役人が貯蔵米を横領していたのではないか、その証拠隠滅のために放火をしたと考えます。白村江の後、幸いにも日本に唐、新羅が攻めてくることはなく、鞠智城の性質も変わっていきましたが、律令制度が崩れて中央の力が届かなくなってしまった背景も推測できるのです。しかし三大実録の奇妙な記事を最後に鞠智城に関する記事は無くなり、鞠智城自体も歴史から姿を消しました。


長者伝説が密かに伝える歴史


鞠智城がある米原地区には、暮れる太陽を呼び戻し、一晩で3000町歩の田植えをしたという米原長者の伝説が残っています。私が子供の頃からこの辺りでは炭化米がたくさん出てきていたのですが、これは火の玉が飛んできて焼けた米原長者の倉の米と言われていました。その他、玉名の疋野(ひきの)長者、鹿央町の駄(だ)の原長者、また、熊本市には蜑(あま)長者の伝説がありますが、長者同士のエピソードも残っているのが大変興味深いところです。例えば駄の原長者は米原長者と宝比べをしていますし、蜑長者は米原長者に娘を嫁がせるため、車道をつくったと伝えています。伝説といえばそれまでですが、米原長者は鞠智城のある米原地区にいて、蜑長者は国府があった子飼、駄の原長者がいたといわれる場所には昔の駅(家)があり、さらに玉名には式内社がありました。式内社を除き他の3所はいずれも国の出先の公的機関です。空想の世界のような"昔話"でも、地方や歴史とあわせ、様々な角度から検証してみると、思わぬ史実が浮かび上がることがあります。


鞠智城と防人の暮らしを映像で


鞠智城では67棟の建物後や貯水池、木簡、瓦などが見つかっており、八角形の鼓楼や兵舎、米倉が復元されました。現在、史跡公園をめざして整備が進められています。

熊本県立装飾古墳館では今度、鞠智城を舞台にした「鞠智城物語」という立体映画をつくりました。国防のために東北から徴兵された防人たちの暮らしぶりや、当時の社会情勢などを映像で知ることができます。鞠智城とともに装飾古墳館にもぜひ足をお運びください。