ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.074 「 白蓮 」

講師/宮崎兄弟資料館ボランティアガイド 「あじさい会」代表  松永 豊美 氏

県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。


今月のテーマは、「白蓮」です。


柳原白蓮は、1885年に伯爵柳原前光の次女として東京に生まれます。九州の炭鉱王、伊藤伝右衛門と結婚し、筑紫の女王として世の耳目を集めますが、やがてそこを出奔し、宮崎竜介(宮崎滔天の長男)との熱烈な恋愛は「白蓮事件」として騒がれました。『心の花』等に作品を発表するなど歌人としても有名で、数奇な運命に翻弄されつつ精神的な苦悶を激しい情熱で乗り越えようとしました。

今回は、宮崎兄弟資料館ボランティアガイド「あじさい会」代表の松永豊美先生に、白蓮について詳しくお話していただきました。その要旨をご紹介します。


出生から第一の結婚


柳原白蓮(本名燁子)は、明治18年(1885)10月に伯爵柳原前光(さきみつ)貴族院議員の娘として誕生しました。前光の妹の愛子(なるこ)は大正天皇の生母で、明治天皇側室二位局であり、燁子と大正天皇はいとこの間柄にあたります。燁子を生んだ母おりょうの父は、日本人として初めてアメリカに渡った政府使節団の団長・新見豊前守正興でした。しかし、正興が日本へ帰ったときは幕末の動乱の最中であったため、当時の幕臣の娘は零落するよりほかありませんでした。燁子は生後7日で母おりょうから引き離され、乳母のもとで育ち、小学校入学を機に柳原家で生活するようになります。

その後、北小路家の養子となり16歳で北小路資武(すけたけ)と結婚します。このとき初めて自分の出生の事実を知ったのでした。

翌年、長男・功光(いさみつ)を出産しますが、19歳の時に破婚、柳原家へ帰ります。

「行くにあらず 帰るにあらず 戻るにあらず 生けるかこの身 死せるかこの身」という歌に、当時の燁子の慟哭をうかがい知ることができます。

養母初子の隠居所に幽閉の身となった燁子は、東洋英語女学校に入学し、佐々木信綱を師に歌の道に精進し、このとき佐々木信綱のすすめで白蓮と名乗ります。必死に勉強した燁子の奔放な歌を詠む素地はここでつくられました。ただ資武の師が佐々木信綱だったことは皮肉なことといえましょう。


九州の炭鉱王のもとへ嫁ぐ


明治44年(1911)、九州の炭鉱王伊藤伝右衛門と再婚し、福岡に移り住みます。燁子27歳、伝右衛門52歳でした。飯塚・幸袋にある、1500坪の敷地に250坪の大豪邸で生活しはじめます。

このころから佐々木信綱の『心の花』に作品を発表し始めます。叔母が二位局といった関係にあったため、一夫多妻で通してきた宮中の習いが身についていた燁子は伝右衛門には美しい妻として接し、生活は短歌に託するという暮らしを常としました。九条武子とともに閨秀歌人として一世を風靡するのもこのころで歌集・詩集などを刊行して行きます。そんな燁子も伊藤が筑豊疑獄事件にかかわると、法廷に立ち伊藤を弁護する優しい面もありました。


白蓮事件


燁子は、大正8年に戯曲『指鬘外道』(しまんげどう)を発表します。宮崎竜介(宮崎滔天の長男)の所属する出版社がこれを本に取り上げることになり、編集者として燁子のところへ訪れます。これが運命的な出会いとなりました。間もなく書簡を取り交わすようになり、上京の折に逢瀬を重ねます(書簡は2年間で700通以上を数えました)。

大正10年(1921)の夏、燁子は、竜介と京都で結ばれ身ごもったことを知ります。早急に竜介の友人たちで出奔の計画がねられ、燁子は、10年間生活をした伊藤家を出奔、竜介と駆け落ちします。10月22日、大阪朝日新聞は燁子の家出を報じ、同夕刊に『燁子の絶縁状』を掲載しました。離縁状を女から男へ、その上新聞紙上でと、白蓮のとった行動はかつてないことでした。そこには、又、10年もの間、伝右衛門との愛と理解を深めようと努力し苦悩する燁子の気持ちが連綿と綴られていました。24日、大阪毎日新聞が『伝右衛門、燁子に与ふる手紙』を掲載、これが世にいう「白蓮事件」です。

このことにより、柳原義光(異母兄)は貴族院議員を引責辞職するなど柳原家に致命的な痛手をもたらす結果となってしまいます。しかし二人は結ばれることなく、燁子は再び柳原家の監禁の身となり、そこで竜介の子・香織を出産します。


燁子、竜介のもとへ


大正12年(1923)関東大震災が起こり、柳原家の関係で燁子と香織が預けられていた中野家も焼けてしまいました。これを聞きつけた竜介は燁子らを迎えにいき、同家も燁子らを帰すということでようやく家族として生活できるようになりました。が、それも束の間、竜介は結核を患って病身の身となってしまいます。そこで、燁子は、優しさと責任の強さから自分の文筆活動(投稿)で生計を支えます。それにしても文筆名を柳原白蓮と名乗っているところをみると、彼女の自我の強さを感じます。

同年、宮内省が柳原家の華族除籍を発表、大正14年(1925)には長女蕗苳子(ふきこ)が誕生します。


晩年の燁子


昭和20年(1945)8月、学徒出陣中の長男の香織が鹿屋空軍基地にて戦死との知らせを聞き、燁子は悲しみのあまり1年で髪の毛が真っ白になったといわれています。しかし、このことを機に戦後の平和運動に参加し悲母の会を結成し、その後世界連邦婦人部の中心となり活躍します。

昭和36年、緑内障のため両目を失明し、昭和42年(1967)、享年81歳で燁子はこの世を去りました。燁子の死後竜介は、「私のところに来てどれだけ私が幸せにしてやれたか、それほど自信があるわけではありませんが、少なくとも私は伊藤や柳原の人々よりは、燁子の個性を理解し援助してやることができたと思っております。波乱に富んだ風雪の前半生をくぐり抜け、最後は私のところに心安らかな場所を見つけたのだと思います。」と語り、4年後の昭和46年、竜介も享年78歳でこの世を去りました。

波乱に満ちた彼女の生涯で、果たしてどの時期が一番幸せであったかは、今となっては知るよしもありません。