ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.073 「 宮部鼎蔵(みやべていぞう) 」

講師/郷土史家  湯治 萬蔵 氏

県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。


今月のテーマは、「宮部鼎蔵」です。


宮部鼎蔵は、文政3年(1820)現在の上益城郡御船町に生まれました。代々医家でありましたが、叔父に就いて山鹿流兵法を学び、30歳の時に肥後藩の軍学師範となりました。翌年江戸で長州の吉田松陰と親交を深め共に東北諸藩を遊歴し、諸国の志士と交遊し尊皇攘夷の信念を深くします。その後、吉田松陰の捕縛に伴い帰国しますが、水前寺乱闘事件のとがで兵法師範職を廃されてしまいます。しかし、出羽の清川八郎の来熊に奮起し、京都に上り細川藩に勤王の興起を促し、総督の三条公の下で総監に命じられますが、朝議が一変し三条実美ら七卿と共に長州に落ち、後に京都に潜入中、池田屋で新撰組に襲撃され自刀し、45歳の生涯を終えました。

今回は、郷土史家の湯治萬蔵先生に宮部鼎蔵について詳しくお話していただきました。その要旨をご紹介いたします。


医学を修め兵学に転ずる


宮部鼎蔵は、文政三年(1820)四月、上益城郡七滝村田代(現御船町)に宮部春吾の長男として生まれます。名は増実、号は田城。宮部家は代々医家でありました。鼎蔵は、九歳の時に熊本城下に学び、十四歳の時に蒼莨塾(そうりょうじゅく)に入門し医学を修めます。この間、弟春熙、次妹が誕生しています。

天保八年(1837)、天保の大飢饉等で貧しい生活を強いられながらも鼎蔵は蒼莨塾を卒業します。しかし、鼎蔵は家業である医家を継がず、叔父である宮部丈左衛門に就き、山鹿流兵法を学びます。二年後には弟春藏が生まれます。

天保十一年、鼎蔵が二十一歳のとき、彼は叔父の宮部丈左衛門の養子となりますが、その年に丈左衛門は亡くなってしまいます。その後、兵学師範である村上傳四郎に師事し、二十四歳のとき村上傳四郎の代見を仰せ付けられます。そして、三十歳のとき、中尾ゑ美と結婚します。しかし、幸せも束の間に、弟春煕と母ヤソがこの年に亡くなってしまいます。

苦難を乗り越えた鼎蔵は、嘉永三年(1850)三十一歳のとき、藩の兵学師範に任じられます。


吉田松陰との出会い


嘉永四年(1851)、鼎蔵は国老有吉頼母(たのも)に従って、江戸へ赴きます。そこで、長州から江戸へ出てきていた吉田松陰と出会います。意気投合した二人は親交を深め、ともに房相や東北諸藩を遊歴し、諸国の志士と交遊しました。

翌年、東北遊歴から江戸に帰り、そこで遊学を打ち切り熊本へ帰ってきます。熊本へ帰ってきた鼎蔵は、林桜園(はやしおうえん)に就いて皇朝の古典を研究します。

嘉永六年(1853)、アメリカからの使節ペリーが黒船の艦隊を引き連れて、浦賀へ来ました。鼎蔵は、再び江戸へ赴き同志を糾合します。

しかし、安政元年(1854)に吉田松陰が渡米を試みますが失敗し、捕縛されてしまい、このとき鼎蔵は、志を得ないまま熊本に帰ってきます。この年には長女が誕生しています。

吉田松陰は安政六年(1859)に処刑されてしまいます。


失意のもと郷里七滝村へ退隠


失意の中で帰国した鼎蔵でしたが、さらに追い打ちをからけれます。門人である丸山勝蔵、その弟大助らが起こした水前寺乱闘事件で罪を得てしまい、兵法師範職を廃されてしまいます。そして鼎蔵は、城下を離れ郷里の七滝村へ退隠します。


意を決し再び京都へ


文久元年(1861)七滝村へ退隠した鼎蔵のもとに、出羽の清川八郎がやってきて国事について談じ、奮起を促します。すると鼎蔵は翌年、門人とともに京都に上り有志の公家および諸藩勤王の志士と親交を深め、細川藩の興起を促すことに努めます。その熱意に押された形で藩議も勤王に踏み切ることになりました。

同年、長岡護美(ながおかもりよし)が禁裏守衛のため上洛のとき、これに従いました。文久三年(1863)、全国諸藩から選抜された親兵三〇〇〇人が設置されると、総督である三条公の下で鼎蔵は総監に任じられました。


池田屋事件により死去


しかし八月十八日の朝議、いわゆる八・一八政変により事態は急変し、三条実美(さねとみ)ら七卿らとともに長州に落ちます。そしてその後京都に潜入します。

元治元年(1864)六月五日未明、同志の一人古高俊太郎が新撰組に逮捕されてしまいます。同志を救出するため、京都三条小橋池田屋で、宮部鼎蔵や長州、土佐、肥後の尊皇攘夷派がひそかに会合していました。そこへ、京都守護職隷下の会津・桑名・彦根・加賀の諸藩兵ならびに禁裡御守衛総督指揮の一橋勢、並びに京都所司代指揮の奉行、与力等総兵力三千余人が導員され、その中にいた近藤勇、土方歳三らが率いる新撰組により襲撃されました。これにより宮部鼎蔵は自刀し、四十五歳の生涯を閉じました。


その後


明治三年(1870)、熊本藩招魂社に合祀され、墓碑も建立されました。明治二十四年には正四位が追贈されました。