ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.072 「 鉄眼(てつげん)禅師と現代 」

講師/小川町三宝禅寺住職  吉里 隆爾 氏

県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。


今月のテーマは、「鉄眼禅師と現代」です。


鉄眼禅師(道光)は、寛永七年(1630)に下益城郡小川町に生まれました。13歳で出家し真宗の僧となりましたが、長崎で黄宗(おうぼくしゅう)の開祖、隠元について禅を修めました。その後、仏教を広めるために一切経の出版を思いたち、自ら版木づくりの資金を求めて全国行脚に出ました。途中さまざまな苦労をしながら、三たび版木の資金集めの旅の末、着手から十年目で一切経(六千九百五十六巻)の版木を作りあげましたが、過度の疲労から翌年五十三歳で亡くなりました。

今回は、版木の一部が収められている小川町三宝禅寺の吉里住職に、鉄眼禅師と(戦前の)国語教科書にも掲載されたという一切経について、またそれが現代とどういう共通点があるのか等、詳しくお話して頂きました。その要旨をご紹介いたします。


鉄眼禅師とは


今から約三百七十年前(寛永7年元旦、1630)に鉄眼は、現在の小川町に生まれました。

勉強家であり努力家でもあった鉄眼は七歳の時すでに観音経を習得し、村人を集めて仏の教えを説いていました。

その説教の素晴らしさ、彼の雄弁ぶりはすでに幼い頃から定評があったと伝えられています。

それから「一切経の完全なものが出版されていないのは残念である」、「是非とも、仏教を広く広めるために仏教テキストの総集である一切経を多くの人に知ってもらいたい」と彼は鉄よりも堅い意志で、一切経の出版を思い立ち、故郷の小川町を後にしました。

その後、中国渡来の師、隠元から中国で出版した一切経の原本を与えられ、現在の宇治市、宝蔵院を本拠として一切経出版の生涯の事業に取りかかるため、全国を津軽から薩摩までその資金集めの行脚の旅に出ました。

しかし、その「一切経出版資金集めの旅」は、言葉を絶する大変な旅であったといいます。大阪地方に大洪水が起こり多くの人々が死傷するなどの姿を見た鉄眼は、「私の一切経出版は仏教を興すにあり、仏教を興すは民を救うにあり」と今までせっかく得たお金をその救済のために投げ出し、そのあとまた今度は近畿地方に大飢饉がおこり、多くの人々が飢饉に苦しむのを見て再び出版資金を投げ出し救済にあたるなど、一度ならず二度までも集めた資金を投げ出しました。

そして、三たび資金集めの旅を開始しましたが、今度はこれまで救済を受けた人々はもちろんのこと一般の人々も進んで寄付しました。

やがて、資金も集まり着手から十年目、初志を貫徹した鉄眼は一切経(全六千九百五十六巻の)出版を成就しました。

人間の限界を越えたその努力、不屈不撓の精神をもって奔走した鉄眼でありましたが、その過度の疲労から体調を壊し、翌年五十三歳でこの世を去りました。


一切経と版木


「一切経」とは、仏教の百科事典であり、釈尊が説かれた「経」、生活の戒め「律」、釈尊と弟子が「経」と「律」を解説した「論」の三つの柱からなりたっています。

これらを網羅したのを一切経といい、全六千九百五十六巻からなります。

この一切経は、木版印刷が用いられており、版木は6万枚を要して、材料は版木として最適な吉野山の桜の木を用い、活字は明朝体です。この版木6万枚を一面にしきつめると三千六百坪、積み上げると阿蘇山(1592m)より200m高く、横につなぐと熊本―八代間の長さになるといわれます。

またこの版木を今製作すると30億円は遥かに越えるといいますから、鉄眼禅師の資金集めがどれほど大変なものであったかが偲ばれます。

現在、仏教の各宗派で使われているお経はいずれもこの一切経のうちに含まれており、一切経は「仏教の知恵の源」「東洋の光」あるいは「日本の心の源泉」とも言えます。

歴史上、一切経の出版は中国で2回、日本で2回の出版があるのみですが、社会に広く普及せしめたのは鉄眼禅師なのです。


三宝寺と鉄眼禅師


鉄眼禅師が両親の菩提を弔うため、生地である小川の現在地に自分の生家を寺として創建されたのが三宝禅師です。

後水尾法皇、法鏡寺宮様との御縁も深く、歴代細川藩公、滋賀彦根藩公の知遇を得、爾来三百十余年その法灯が今日まで守り継がれています。

寺内には、鉄眼が苦心の末に出版した一切経の版木(縦22cm、横82cm、桜坂の表裏に経文が明朝体で丁寧に彫られている)が、寺宝として大切に保存されているほか、鉄眼禅師の遺品である菊花紋章の勅額、全国行脚の桑の柱杖、如意、後水尾天皇の御宸筆など多くの文化財を拝観することができます。また、三百年の重みを持つ山門と梵鐘、中国の明時代に渡来した仏像があります。山上には大正十五年に県教育委員会により建立された鉄眼禅師功徳碑がそびえています。

現在は、地元小川町薬草クラブの皆様の手により、裏山の斜面に薬草の自然栽培が行われ、参拝された方々に粥やお茶席などの接待(毎年12月の第1日曜日)をして、仏の里をつくろうとの運動が新たに湧き上がっているそうです。

第十四代の吉里住職は、「人間は煩悩のかたまりです。生きている間にどういうことをやり、どういう功績を残したかということよりも、己れはどう生きるべきか、どういう生きざまをするのかが大事なことなのです。」と言われます。

三宝寺で、吉里住職のお話を聞きながら、鉄眼禅師の偉業を偲んでみてはいかがですか。