ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.068 「 加藤清正の創った歴史的遺構 鼻ぐりのヒミツ 」

講師/㈱大揮環境計画事務所社長  平嶋 孝 氏

県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。


今月のテーマは、「加藤清正の創った歴史的遺構 鼻ぐりのヒミツ」です。


殆どの人がご存知ない「鼻ぐり」工法とはなんでしょうか。それは菊陽町馬場楠井手から分水された水路で、その中に「トンネル」が掘られ、土砂のハケをよくする天下無類のシステムで、一般に「鼻ぐり」と呼ばれています。熊本の人で現地を探索した人は極めて稀です。

今回は、その調査にあたったメンバーの一人、㈱大揮環境計画事務所の平嶋社長に、四世紀前の「鼻ぐり」の建設に隠された巧みのわざの謎と今の「鼻ぐり」が私達に何を伝えようとしているのかを語っていただきました。その要旨をご紹介します。


全国レべルの産業遺産


鼻ぐりの位置する馬場楠井手は、菊陽町の馬場楠を源に発し、白川左岸の火山灰台地帯の曲手、辛川から熊本市の上南部を経て大江渡鹿に至る受益面積約181町(ha)、延長6,239間(約13km)の養水井手です。この井手は、加藤清正公によって馬場楠堰と同様に慶長13年(1608)に設置され、現存する加藤清正公の治政と土木事業を物語る上で欠かすことのできない農業水利施設です。

これらの事業は今日においても私たちの食料を生み出す生産基盤として400年間も生きつづけ活用されている施設です。その中でも馬場楠井手の鼻ぐり遺構は、全国的にも世界的にもめずらしい農業用水施設でそのシステムには目を見張るものがあります。

今回のテーマである鼻ぐりは、馬場楠堰から白川沿いに910間(約1,638m)西流した地点にその遺構があります。現在は、空港から菊陽町役場と歴史の道である豊後街道杉並木に至る途中の白川に架かる鼻ぐり大橋の真下に位置しています。大橋の白川左岸沿いから現在の様子を見下ろすことができます。

基 この馬場楠井手の工事において、鼻ぐりの位置する中須山(215間-約387m)は、掘り割り工事によって生まれた山で最も難工事をしいられた場所です。当時の技術水準の高さを見ることが出来る土木遺産であると同時に、清正公の領国経営の様子を語りかけてくれる郷土の歴史的遺産でもあります。


鼻ぐりの全体構造


江戸時代において清正公の遺業を調査した鹿子木量平(1753~1841)が著わした「勝国治水遺」には、鼻ぐりが80基ほどあったと記録されていますが、現在遺構として形が保たれている鼻ぐりは、24基です。記録によると江戸時代に52基の鼻ぐりが破壊されており、現在確認できる残欠部分が残る遺構は39基あり、合わせると63基が現在確認することが出来ます。この鼻ぐり井出が残る区間が本水路で、白川左岸沿いの用水路を分水路と呼び、その中央にある中須山を中心に馬場楠堰からの用水路が分岐し、下流側で合流する構造になっています。

用水の一定量を確保するためには、どうしてもこの区間を堀切する必要があり、そのためには堅い岩盤を底深く幅広く、安全に掘らねばならなかったのですが、その地形から水路底と周囲との標高差が大きく幅広く深く掘削すると、建設コストも高く、維持管理も容易ではありません。また、ゆるやかな勾配であれば火山灰が堆積することにもなるので、その堆積を防ぎスムーズに流す工夫が当時の現地調査の結果、必要とされたと判断されます。

そこには、最先端の土木技術者集団の存在を見逃すことができません。創意工夫をもって、その困難さを改善する方法として「鼻ぐり」といわれる工法を編み出しています。また、馬場楠堰の井樋付近にあった「猪口(ちょこ)の口」あるいは「銚子の口」と呼ばれた流量(流入)調整施設も「鼻ぐり」を良好な状態で機能させていくために重要な役割を果たしていた関連施設であったと考えられています。


鼻ぐりのしかけ


上記の図のように、阿蘇溶結凝灰岩のあいだに掘られた側壁に穴を穿って水流をつなぐ状態は、牛の両鼻穴を通して半月形の木枠を鼻につけさせる「鼻ぐり」の状態に非常によく似ているため「鼻操り」工法と呼ばれていますが、ある意味では自然を自在に調整管理するという意味も含まれていると考えられます。

鼻ぐりまでの水路は、幅員が約4.5mですが、中須山から分水する地点からは、幅員が約3.0~2.0mと挟まった上に鼻ぐりの壁が連続して並びます。現在も残る遺構の中央に平均して横2.0m×縦1.4mの円形の大穴があいています。この本水路区間の縦断勾配は1:300で山間部から扇状地に出る激しい流れの様相を見せます。水路は直線ではなく、右左と交互に流れを蛇行させる水路で、12ヶ所(変化点)の鼻ぐりの壁にぶつかりながら流れの向きを変えます。

この「鼻ぐり」に養水が流水すると1つの壁の間に貯水層ができますが、下部の穴を通る水は、上流から水が押してくるため急激な流れとなり、流れの速さを増します。それと同時に上部の壁にあたる水は、壁にハネ返りながら逆流し、穴を通る流れに巻きこまれ、次の鼻ぐりでさらに撹拌(かきまぜられる)されて、ヨナ等の堆積を防ぎ用水をスムーズに流すようになっています。また、鼻ぐりの真下の水路底においても水路勾配に対して皿形状のくぼみがあり、水路底の水流を鼻ぐり壁の上方に誘導する形状も観察することができます。水理を知り抜いた知恵の結集です。

白川の増水時、すなわち大量の水が入ってくる場合は、白川左岸側の分流水路へ増水を導き、土砂ばき(3ヵ所)から自然に白川に放流される仕掛けとなっています。この分水路のスタート地点は、本水路よりも1m高くなっており、馬場楠堰の「猪口の口」あるいは、「銚子の口」と同様に流量をコントロールできる仕組みになっています。また、縦断勾配も約1:200で、本水路より急な流れとなっています。鼻ぐりは、このようなトータルな仕組みによって水量のバランスをコントロールし、管理を容易にしながら下流に養水を流すことができるように工夫されています。

このシステムは、当時ではまさに画期的な仕組みであり、清正公の子忠広公時代に記された「覚書―相川文庫」には、全国各地からこの工法を見学に訪れた人々すべてが感嘆して帰ったことを伝えてます。この当時からも、いかに管理を容易にするかを研究する組織体と情報のネットワークがあったことを物語るエピソードです。

実際に地底にもぐると、両脇から迫(挟)りくる岩壁を掘り貫いた「のみ」の跡がいたるところにあり、また、階段通路の跡が現在も57ヶ所残っており、当時の大変な工事の様子が読み取れます。この段階は、直線的に降りるタイプ、八の字、くの字、V字、M字、T字型の6タイプがあり、はなぐりの壁の間もまちまちであることから大勢の人々が一度に単期間に工事を行なったことが推測できます。

「勝国治水遺」の中に「稼薔(かしょく)の道開けしとなん」という言葉があります。「豊かで安心できる民の暮らしをつくる」と宣言した清正公の領国経営の理念を伝える言葉です。このスローガンからも家臣と領民が一体となって組織的に事業にあたっている様子が見えます。しかし、現在の水路の中には、上流域から流れ込んだビンやプラスチックのごみが散在し、壁面には多くのひび割れが発生しています。近代文明の悲哀を感じさせます。先人の恩恵を末永く伝える意味からも郷土の歴史的遺産としての価値をより多くの方々に理解していただくことが欠かせません。

未来へ継承していくためにも、清正公の「稼薔(かしょく)の道開けしとなん」の言葉の意味を改めて考えていくことが今の私達に求められているのではないでしょうか。