ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.067 「 松本喜三郎と作品 」

講師/熊本県立美術館 学芸員  高浜 州賀子 氏

県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。


今月のテーマは、「松本喜三郎と作品」です。


松本喜三郎は、文政八年(1825)2月、熊本の井手ノ口町(現熊本市迎町)に生まれます。幼い頃から手先が器用で、若くして地蔵祭りの造り物等を手懸けました。その後、大阪、東京などで「活人形元祖肥後熊本産松本喜三郎一座」の大看板を掲げて興行し、看板に偽らぬ生きているような人形の素晴らしさで大当りをとりました。現在、熊本に現存する遺作品は「谷汲寺観音像」(浄国寺)や春日の来迎院所蔵の観音像など10数点にのぼります。

今回は、松本喜三郎と彼の作品について、県立美術館の高浜州賀子先生にお話して頂きました。その要旨をご紹介いたします。


『生人形』が生まれた時代


江戸時代の末期まで、日本では仏像彫刻のような様式表現はあっても、等身大の美人や当世人物を、動作、表情の細部にまで再現した『生人形(いきにんぎょう)』というような、写実表現はありませんでした。まるで生きているようで、今にも喋りだしそうな人形たちに当時の庶民は熱狂しました。

押し寄せる西洋文化の波は、当時の日本人たちに新しい物の見方を迫ります。リアリズム(現実主義)がその一つでしょう。時代は確実にリアリズムへの関心を高めて行きました。その時代に敏感に感応したのが、松本喜三郎なる天才人形師でした。


若き日の松本喜三郎


松本喜三郎は、文政8年(1825)熊本の井手ノ口町(現熊本市迎町)に生まれます。父は、油屋の屋号を持つ両替商の番頭で、母は東唐人町にあった唐物商の伊勢屋九兵衛の妹だったと言います。父は、能書家で謡曲をうたうなどの趣味人であり、また一家は熱心な真宗門徒でした。

喜三郎は十四、五歳で職人町の鞘師に弟子入りします。そこで塗りや錺りを学んだといいます。さらに御用絵師矢野良敬について絵も学びました。

喜三郎と人形の出会いは町の地蔵祭りでした。7月24日の夕方、町々の地蔵堂には名物の造り物がとりどりに並びます。中でも長六橋以南の迎町と井手ノ口町は造り物の本場でした。ここで圧倒的な人気をとったのが、井手ノ口の喜三郎と迎町の安本亀八でした。亀八は、喜三郎より一歳年下の、生涯を通じて並び称された人形師となります。

喜三郎が20歳頃に造った等身大の明智左馬之助は、桐材で頭部と顔面を刻み、それを二つに割り、ガラスの眼球を内面にはめこみ、再び合わせて素地としたといいます。これに紙を貼って顔料を塗り、頭髪、眉毛、まつ毛を付けて頭部が出来ます。ボディは、空洞の張り子で、鎧を着せ、陣羽織をはおります。外に見える手の部分は桐材で彫り、顔料で着色します。こうした技法を「掘り抜き細工」といいます。

弘化3年(1846)喜三郎が22歳の頃、近くの薬種商の益城屋の乳母、お秋という美人像を等身大で造ります。実在の人物をモデルにして、本人そっくりに造り上げられたこの人形が、おそらく「生人形(いきにんぎょう)」の始まりだといわれます。代継宮の春祭りでモデル本人と人形が並んで登場したとき、みんなが熱狂するのも当たり前でした。


大阪・東京での興行


嘉永5年(1852)大阪で大江新兵衛という人が張り抜き細工の等身大役者似顔人形を興行しました。これが好評で、京都や江戸でも同じような似顔人形が興行されます。このブームを決定的にしたのが、安政元年(1854)2月、肥後熊本出身の松本喜三郎が大阪難波新地で異国人物人形を発表したときのことでした。これが空前の大当たりをとります。その看板に「活人形元祖肥後熊本産松本喜三郎一座」と掲げたことにより、活人形の名前が初めて付けられたといいます。「その容貌活けるが如き」迫真の人形群だったのでしょう。

翌安政2年江戸の浅草奥山で、大阪の異国人物と、象の上に楼閣人物を載せた景、長崎丸山遊女の入浴場面などを加えて興行すると、ものすごい評判になります。興行元の新門辰五郎の知遇を得て、以後はつぎつぎに浅草で新しい出し物を披露していきました。

その後の主な興行は、「浮世見立四八曲」の140体48場面は安政4年(1859)大阪難波にて、万延元年(1860)には江戸浅草で開帳します。「西国三十三ヶ所観音霊験記」は明治4年(1871)から8年まで江戸浅草で5年間の長期興行となりました。明治6年にはウイーン万国博覧会のために造花と骨格見本を出品します。明治8年から浅草では、「東京生人形」「百工競精場」「西郷活偶」「浅草観世音霊験記」を毎年興行します。明治12年から「西国三十三ヶ所観音霊験記」を北陸地方を回って大阪まで巡業しました。同14年大阪で、能の場面を題材にした八場の新作を発表します。翌年熊本で凱旋興行を60日間興行し、18年には熊本本妙寺大遠忌に明十橋際で「本朝孝子伝」を興行しました。

喜三郎のマニアックなまでの情熱は、人間を忠実に映し出すことに注がれました。前人未踏で、独創性に満ちた喜三郎の写実人形は、幕末・明治初期という特殊日本的な、近代の黎明期に輝いた大衆文化でした。

喜三郎は明治24年、67歳で亡くなりましたが、その生涯に造り上げた人形は数百体以上に及びます。ところが現在残っている人形は十数点にすぎません。浄国寺の「谷汲観音像」、潮永家の「斉藤実盛像」などがそれで、それらを頼りに生人形の実態を推測する以外にないのです。必ずしも最上の作品が残っているとは言えないので、本質がわかるとはいいきれません。しかし、彼が現実の人間を再現するという「見た目」にかけた『スーパーリアリズム』の作家であったということは、まぎれもない事実です。今見ることのできる彼の人形表現は、生命力と迫力にあふれる、特異な造形作品だと思います。