ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.066 「 豊肥本線70年あれこれ 」鉄道と阿蘇

講師/熊本日日新聞 編集委員室長  井上 智重 氏

県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。


今月のテーマは、「豊肥本線70年あれこれ」鉄道と阿蘇です。


豊肥本線は、鹿児島本線熊本駅と日豊本線大分駅を結ぶ延長148キロの国鉄路線です。全線開通したのは昭和3年(1928)で、九州を横断する輸送路として重要な役割を果たしてきました。また、10年前には九州発の蒸気機関車「SLあそBOY」も登場しました。勾配33.3%の九州一の難所である立野駅―赤水駅間の通称スイッチバックも"なんだ坂コンナ坂しゅっしゅっしゅっ・・・"と登っていっています。

今回は、豊肥本線の開通から現在までの70年の歴史を、いろんなエピソードを交えて、井上智重先生にお話頂きました。


鉄道開通へ向けて


今年の12月2日で、豊肥本線が全面開通してちょうど70年を迎えました。

鉄道開通の歴史を調べていくうちに、ある人物の自叙伝と出合いました。

その人物の名は犬飼慎平です。彼は、明治維新の時15歳。阿蘇郡岩坂村出身です。ここは、現在の大津町、西原村に分かれています。その後彼は上京し、巡査になります。西南戦争後に帰郷し、阿蘇郡一の宮町の栗林家の分家に養子に入り、宮地村の村長や県会議員、代議士にもなります。

また彼は、熊本城下の士族たちからいかに阿蘇の人々は差別されていたのか、義憤をもって書いています。阿蘇の人は「阿蘇んじょう」と言われ、菊池の人は「菊池のお人」。呼ばれ方で差別を受けたうえ、武術の修行に犬飼が行ったときは「阿蘇ではキツネやタヌキと同じしとねに寝ていると聞くが、本当かね」などと道場主から言われ、侮辱されたといいます。

そういう背景から、犬飼は「やはり文明の機器である鉄道を通し、産業を興さないといけない」と思うわけです。阿蘇から熊本城下に出てくるには二重の峠を越えるしかありません。南郷からは俵山越えです。そこを牛や馬で米俵や木材なども運び出していました。しかし、明治18年ようやく大分との間に県道が通ります。それまではほぼ孤立した世界でした。


安場保和(やすばやすかず)の功績


豊肥線の構想はすでに明治18年頃から出ていました。しかし、まだ九州には鉄道は来ていませんでした。来ていないどころかようやく東海道線の工事が本格化したところでした。なぜこのころ、阿蘇でも鉄道熱が高まったかというと、東北の方では鉄道工事が始まっていたためです。この鉄道は民間の日本鉄道会社の経営になるものですが、この民間鉄道を最初に思いついた人物の一人が安場保和という人です。この人は熊本人です。保和というのは明治になって自分で名付けたもので、安場一平といわれていました。安場家では代々、一平といいます。もしかしたら、ご存じの方もおられるかもしれませんが、忠臣蔵の大石内蔵助らが高輪台の細川藩の下屋敷にお預かりになりますが、内蔵助の介錯をしたのが安場一平という先祖です。

また安場保和は横井小楠の弟子でもあります。

勝海舟が「小楠の弟子といえる者は安場保和ぐらいなものだろう」と言ったといいます。小楠が松平春巌に招かれ、福井藩に政治顧問として行きますが、そのとき安場も一緒について行っています。

明治維新になると肥後藩は官軍側につきます。安場は江戸城の引き渡しの場にも出ています。その後、廃藩置県で安場は賊軍側の東北の岩手県水沢の胆沢県の大参事となります。いわゆる副知事です。

安場は、明治4年の岩倉具視の欧米視察団に、肥後からただ一人参加しています。また、福島県令になり洋学校、医学校を造り、機械による製糸工場を作り、教員養成所も造ります。さらに「安積(あさか)開拓」を始めます。これは、明治政府が国営事業として郡山の安積原野の大規模開拓で、殖産興業策の一環です。安場は政府に金七千円の開墾資金の交付を願い出て、中条政恒を登用し、推進にあたらせます。(ちなみに、中条政恒の孫娘が小説家の宮本百合子で、共産党宮本前委員長の妻です。)

その後、安場は愛知県令になります。そこでもいろんな殖産興業、インフラ整備に取り組みます。名古屋城の金の鯱も復元させています。(後に、後藤新平は名古屋病院長になり、安場の二女を妻とします。つまり安場の娘婿になります。)

その後、安場は元老院議員になります。

新橋―横浜間に鉄道が開通し、神戸から京都へ、京都から東京へと逆に鉄道を延ばしていこうとしますが、西南戦争で国庫は空っぽになり、大津あたりで止まってしまいます。

そこで安場の考えたアイデアが、民間でやったらどうかということでした。華族(旧大名家)らから資金を募集し、利子保証を国に求めてやろうというものです。そして、鉄道会社条例および鉄道会社利益保護保証法の決議を行ないました。

明治17年6月には東京―高崎間が開通し、東北まで延びていきます。「仙台まででいいんじゃないか」という岩倉具視を説得し、青森まで延ばしたのは安場の力によるものです。


九州管内鉄道敷設へ


その安場が、今度は福岡県令として九州にやってきたのは明治19年のことです。彼はさっそく鉄道敷設に動きます。当時、佐賀県令は鎌田景弼で、熊本県令は富岡敬明です。そして、明治24年7月、九州鉄道会社によって初めて門司―熊本間に汽車が走りだします。新橋―横浜間が開通して19年後のことです。

安場は鉄道敷設の理由にこんなことを上げています。「世のなか大変不況だ。しかし、金利が安くなっている。松方デフレのためだ。雇用促進と遊んでいる資本を有効に使うべきだ。」と。

明治25年6月、大分―熊本間が鉄道敷設法の予定線に上げられ、27年には路線の調査が行なわれます。しかし、あの外輪山の壁を見て二の足を踏んでしまいます。そこで熊本―大津間に東肥鉄道会社を創立します。そこで株を募集しますが、不況のため解散せざるを得なくなります。

こういった、さまざまな苦難や苦労を乗り越えて、豊肥本線は現在も人々の足として活躍しています。多くの人の努力が礎になっています。

勾配33.3%の九州一の難所である立野―赤水間の、通称「スイッチバック」と呼ばれる坂も"なんだ坂コンナ坂しゅっしゅっしゅっ‥"とSLあそBOYが頑張って走っています。