県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。
今月のテーマは、「小泉八雲と熊本」です。
小泉八雲(本名ラフカディオ・ハーン)は、ギリシャで生まれます。16歳の時左目を失明しますが、逆境に耐えて苦労力行し、明治23年松江中学で教べんを揮い、24年小泉セツと結婚し、その後熊本の五高に赴任します。校長の嘉納治五郎や教授の秋月胤永らの好遇を受け、熊本の風土と純真素朴な五高の学生に親近感を抱きます。その後多くの名作を発表しますが、熊本での貴重な収穫によるものであるということは大変意義深いことです
今回は、八雲の熊本時代について、小泉八雲旧居の宮崎啓子先生に詳しくお話して頂きました。その要旨をご紹介いたします。
小泉八雲の生い立ち
小泉八雲は本名をラフカディオ・ハーンといい、1850年(嘉永3年)6月27日、ギリシアのレフカダ島に生まれました。2歳の時、母と共に父の実家のあるダブリンへ帰りますが、その後両親が離婚し、ハーンは大叔母に引き取られて養育されます。13歳の時、英国のダラム市近郊の聖カスバート校に入学します。在学中ゲームをしていて誤って左眼を失明してしまいます。19歳の頃渡米してシンシナティやニューオーリンズなどで新聞記者として活躍します。そこで翻訳や創作を発表して次第に文名が高くなっていきます。
小泉八雲、日本へ
1890年(明治23年)4月、ハーンは横浜に到着します。人力車でいろんな神社仏閣を見て回り、横浜の町並みを細かく観察したりしています。当時日本では、外国人による外国語教師、とくに英語教師が求められていました。そこで八雲も同年9月に島根県の招きによって、島根県尋常中学校・師範学校の英語教師として松江に赴任してきます。
翌年、小泉セツと結婚します。そしてセツとその家族を伴って、11月19日、第五高等中学校に赴任のため熊本にやってきます。
熊本での生活
当時の熊本は、明治10年の西南戦争で焼き尽くされ、復興に力が入れられており、明治22年に約4万3千人の熊本市が誕生したばかりでした。
熊本に到着したハーンは、6日間、不知火館に泊まります。その後、手取本町34番地に借家を借ります。このころ、松江時代に開始していた『グリンプシズ』の執筆を再開します。また、松江時代の教え子の小豆沢八三郎や大谷正信らに、その後発表される「家庭の祭壇」や「英語教師の日記から」の執筆のための資料収集も依頼しています。
12月には、五高龍南会において、「自己教育」という題で講演をしました。
しかし、第二回帝国議会が解散し、文部省予算の削減措置として金沢・仙台・熊本の三高等中学校の廃止案を含む予算案が議案にのぼり、赴任早々失業の不安に脅えますが、なんとかこの難を逃れます。その後も帝国議会は解散・総選挙を繰り返します。
そして、1月1日には、日本ではじめて家庭的な正月を過ごします。着物が好きであったハーンは、第六師団長野崎中将主催の新年宴会に紋付袴で出席しました。
明治25年5月で最初の契約が切れ、雇用継続の手続きを行いますが、五高存続問題で難航している文部省側の良い返事がえられず、なんとか1年間の雇用継続の認可が下りるのは3ヵ月後の8月でした。その間、関西と島根・隠岐へ『グリンプシズ』執筆のための取材へ出掛けています。9月中旬に帰ってきて、11月には西外坪井町堀端35番地に転居します。
翌年明治26年の2月、敬意を抱きつづけ、また柔術家としても魅せられていた校長の嘉納治五郎の送別の写真撮影に参加します。
5月にはさらにもう1年の雇用継続が決定されます。
7月には、長崎へ旅行に出かけ、帰途、三角の浦島屋に立ち寄ります。この旅行の経緯は、浦島伝説の由来をめぐる論考と絡め、後に名作『夏の日の夢』を生みます。
同年11月、長男の一雄(愛称「カジ」、洋名はレオポルド)が誕生します。その後出産のお祝いに秋月胤永が梅花鉢と酒と祝歌の掛物を携えてやってきますが、このエピソードが「九州の学生とともに」の結びに用いられています。
またこのころから坪井の隣人達との交流が盛んになり、隣人を庭に招いて踊りを楽しんだりしたといわれます。
明治27年1月、端邦館で全校生徒を前に「極東の将来」という題で講演しますが、この講義は『龍南会雑誌』第28号や『九州日日新聞』に掲載され、各方面で読みつがれることになります。
しかし、6月頃突然五高退職の欲望が強くなります。10日付けのチェンバレン宛書簡によれば、いきなり授業を中断して、辞表を書きに帰宅した後、桜井教頭のところを訪ねたとあります。まもなく『神戸クロニクル』への就職が内定し、明治27年の10月、熊本を発ちました。
その後
神戸に移ったハーンは、神戸クロニクル社の論説記者として活躍し、明治29年に日本に帰化し、小泉八雲と名乗ります。その後帝国大学講師として東京へ移り『仏の畑の落穂』、『怪談』などの作品をつぎつぎに発表します。そして、早稲田大学文学部講師に就任した明治37年、心臓発作のため54才で逝去します。
八雲が熊本にいた3年間は、彼や彼の作品に大きな影響を与えました。熊本時代があったからその後の作品に深みがでてきたと思われます。
八雲の旧居は昭和35年に解体の危機にさらされましたが、熊本日日新聞社社長の小崎邦弥氏、荒木精之氏、丸山学氏などを中心に、小泉八雲旧居保存会が結成され、五高出身者などに呼び掛け寄金を募り、翌年旧居の一部を切り取り現在地へ移築保存し、昭和43年に熊本市有形文化財に指定されました。
|
|