ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.063 「 清浦奎吾 」

講師/清浦記念館館長  佐藤 正徳 氏

県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。


今月のテーマは、「清浦奎吾」です。


県出身で初の内閣総理大臣に就任した清浦奎吾は、嘉永3年(一八五〇)鹿本郡鹿本町に大久保了恩の五男として生まれ、日田咸宜園で学び、明治5年に上京します。29年、第二次松方正義内閣以来司法大臣などを歴任し、大正13年(一九二四)75歳で組閣しますが、半年で総辞職となります。

今回は、清浦奎吾の生い立ちから組閣に至るまでを清浦奎吾記念館の佐藤正徳先生に詳しくお話していただきました。その要旨をご紹介いたします。


奎吾の生い立ち


清浦奎吾は、嘉永三年(一八五〇)鹿本郡鹿本町来民の明照寺にて、大久保了恩の五男として生まれます。幼名を普寂といいました。

父の了恩は学問の素養もふかく、近所の子弟たちに教えていたので普寂も自然にこの父について論語や中庸なども習っていましたが、才能はその時から人より抜きでていました。しかしまた元気もよく、近所のガキ大将としても名を知られていました。

11才の頃から町内の武藤昌英について漢学を学び、12才のとき熊本市内の名門浄行寺の養子となりましたが、そこでのお経やお勤めは普寂の志とは合わず、やがて来民に帰ってしまいます。その後、向学心にもえる普寂は、菊池郡大津町の大矢野塾に入り16才まで勉学に励みます。


日田咸宜園で学ぶ


普寂が大矢野で勉学を続けているうちに世は幕末となり、国内はひとしお騒がしくなってきました。彼は、「このようなご時世の時、もっと天下の形成がわかるところで学びたい」と考え、16才の時に父母の反対を説得し、日田の咸宜園に入ります。

日田咸宜園は、広瀬淡窓が開いた私塾で、その独特の教育や学徳を慕って全国から多くの秀才たちが集まっていましたが、普寂はここで6年の間の苦学の末、ついに九級・大舎長となります。そして、県令野村盛秀の知遇により、都講として日田県庁で職員へ講義をします。そのとき名を大久保普寂から清浦奎吾とし、明治3年意気揚々と6年ぶりに来民へ帰郷します。


日本の近代化への功績


それから約1年の後、23才になった奎吾は、上京し、野村県令の厚遇により、埼玉県大教授心得に任ぜられ風波野小学校の校長として教育に心魂をかたむけます。その後、埼玉県学校改正所主任として県を代表して、第一大学区会議で三番議員として活躍し名声をあげます。そして、明治9年27才の時司法省に入省し、大審院検事局で法律の制作作業に取り組みます。

そのころ、司法省では外国との不平等条約改正のため広く人材を集めて国内の法律の改正に取り組んでいましたが、奎吾はつねに人権尊重の精神に基づいて尽力し、不平等条約(神奈川条約)の改正のため、治罪法(現在の刑事訴訟法の前身)の制定につくします。

また、37才の時に内務省警保局長となり、フランス人のハフトマン・ヘンの助言により、警察署の機構改革や警察官の教育制度の改善や監獄制度の改革などを手懸けていきます。43才の時は、司法次官となったのをはじめ、司法大臣3回、監獄費国宝支弁法の制定、刑法の改正などを行います。また、農商務大臣、内務大臣を歴任し、農業生産の増強、商工業の振興などに尽力します。大正3年には組閣の大命を拝しますが、海軍の大鑑建造計画を呑むことを拒んだために組閣を拝辞してしまいます。その後73才の時に枢密院議長となり国務に精励しますが、大正13年再び組閣の大命を拝して、内閣総理大臣に任ぜられました。そのとき75歳でした。

施策方針として関東大震災後の帝都復興など重要なものがありましたが、議会の協力が得られずわずか6ヶ月で辞任してしまいます。


総理大臣辞任後


長い役人人生とも別れた奎吾は、自由な身になったにもかかわらず、国家の元老として国の内外に重きをなすことにはかわりありませんでした。

大正15年には第4回目の中国視察をして日中の友好親善につとめるなど、喜寿を迎えてもなお社会人的公人として各種団体の育成発展に力を注ぎます。

郷土の鹿本町に対しては明治41年、旧制鹿本中学校に清浦文庫を創設し、さらに奨学のための清浦賞を設けるなど、深い郷土愛をもって地域社会の後進の育成につとめました。

清浦奎吾は、少年時代から苦学力行し、本当に自分の力で総理大臣までなりましたが、つねに四恩(親、先輩、朋友、時世)を忘れる事なく生きてきました。

昭和17年11月5日、奎吾は熱海の米寿庵で93才の生涯を終えますが、その墓は横浜の総持寺と、誕生の地明照寺の境内にあります。